【家族の力・村田修一】「生存率1割」の長男・閏哉くんが17歳 10年ぶり自宅訪問

元プロ野球選手、村田修一(42)。現役時代はNPB通算360本塁打のスラッガーとして活躍。「男村田」と親しまれ、横浜(現DeNA)、巨人、侍ジャパンで主軸を張り、今季からロッテの1軍打撃コーチに就任しました。そんな村田の長男閏哉(じゅんや)君は06年2月7日、体重712グラムの超低出生体重児として生まれ、生死をさまよいました。

日刊スポーツでは、巨人にFA移籍した12年に村田家をインタビュー。「生存率1割」を乗り越えて6歳となった閏哉君と家族の強い絆が、村田のフルスイングを支えていると知りました。

ちょうど10年が経過した22年12月中旬。閏哉君と家族の今を取材しようと、村田家を訪問しました。閏哉君が17回目の誕生日を迎えた2月7日、「家族の力 ~村田家 あれから10年~」をお届けします。(敬称略)

プロ野球

◆村田修一(むらた・しゅういち)1980年(昭55)12月28日、福岡県生まれ。東福岡では投手で98年甲子園に春夏連続出場。日大で野手転向し、東都リーグ歴代2位の通算20本塁打。02年ドラフト自由枠で横浜入団。07、08年本塁打王。11年オフにFAで巨人へ移籍し12年からリーグ3連覇に貢献。17年オフに巨人を自由契約。18年はBC栃木でプレーし、同年限りで現役引退。ベストナイン4度、ゴールデングラブ賞3度。08年北京五輪、09年WBC日本代表。引退後は19~22年巨人コーチ。23年にロッテ1軍打撃コーチに就任。177センチ、92キロ。右投げ右打ち。

712㌘→高2 当時の記事を読んで…

高校2年生の村田閏哉は、弟2人に挟まれながら、自宅のソファに身を沈めていた。10年前に小1の自分と次男凰晟(こうせい)が、村田に後ろから抱きかかえられている写真が掲載されたインタビュー記事のコピーを手にしていた。

閏哉写真撮ったのは記憶あるんですけど。キャンプの時? この写真は撮ったような記憶があるような、ないような…。

ローテーブルを挟んで座っていた、母であり村田の妻の絵美から「小さかったから、記事読んでないよね?」と聞かれてうなずくと、兄弟3人で記事に目を落とした。ここから約5分間、年の瀬の村田家のリビングは沈黙に包まれた。

妊娠23週目の破水

◆12年5月23日掲載◆

きっと乗り越えられる。巨人の村田修一内野手(31)はDeNAからFA(フリーエージェント)移籍で今季加入した。注目度の高い球団でシーズンの開幕からクリーンアップを務め、今月からは“第76代”の4番打者を任されている。重圧に負けない気力の源泉には「生存率1割」と言われた困難を切り抜けた長男閏哉(じゅんや)君(6)の存在がある。妻絵美さん(31)が、家族の闘いと夫の素顔を明かした。【取材・構成=浜本卓也】

村田ははっきりと言う。「閏がいなかったら、今はない。閏が小さな体で頑張っていたのを思うと『打った、打てない』でいちいちクヨクヨするのは、と思う」。

巨人のクリーンアップとして、横浜時代とは比較できないぐらいの重圧との闘いも、わが子の頑張りに比べたら-。そう思えるほど、長男閏哉君と家族は厳しい闘いを乗り越えてきた。

6年前のキャンプイン4日前、1月27日の朝だった。自宅で絵美さんが破水した。まだ妊娠23週目、予定日より約4カ月も早かった。近くの産婦人科医に駆け込んだが、すぐに救急車で神奈川・藤沢市内の病院に搬送。そこで、医師から告げられた。

「生存率は1割。仮に助かっても、障害が残る確率は、9割です」

「すぐに受け入れるのは無理でしたね」と絵美さんは振り返る。「頭には『私が悪い』『私が悪い』しかなかった」。そう自らを責め続けた絵美さんに、村田は「生命力を信じよう」と言ったという。

「不安はあったと思うんです。でも、あの人はきれいごとは言わないから」。夫の言葉に覚悟を感じ取った。11日後の06年2月7日午前9時18分、閏哉君は体重712グラムの超低出生体重児として生まれた。

10年前の記事を静かに熟読する息子たちの様子が気になったのか、父村田修一がリビングに姿を見せた。

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