箱根駅伝を創設した金栗四三が日本人初の夏季オリンピック(五輪)出場者となったのは、NHK大河ドラマ「いだてん」でも題材となり、有名な話になった。実は、冬季五輪に出場した日本人1号も箱根ランナーだった。第1回から第3回大会まで出場した麻生武治。早大を卒業後、28年サンモリッツ五輪にノルディック複合など3種目で出場した。他にも多数の偉業が残っている。連載「箱根から五輪へ」の第2回は、その伝説の一部を紹介する。(敬称略)

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<1>陸上で華々しい成績 麻生は日銀理事の父とピアニストの母の間に生まれ、東京・暁星中でスポーツに目覚めた。箱根駅伝は第1回大会で9区、第2、3回大会で5区を走り、すべて区間賞。第3回大会では後に副総理となる河野一郎らと早大の初優勝に貢献した。また1500メートルも日本新記録を出したほか、日本初とされる競歩の公式戦(3000メートル)も制覇。

<2>日本人初の冬季五輪代表 陸上で培った体力を生かし、畑違いの競技でも才能を発揮した。22年(大11)にスイス留学し、冬はスキーを楽しんだ。雪山に心酔し、後に進んだベルリン体育大では冬季に休学もするなどスキーの腕はみるみる上達。ついには28年サンモリッツ五輪のスキー日本代表6人の1人に。結果はジャンプ、ノルディック複合、クロスカントリーとも途中棄権や失格に終わったが、日本人初となる冬季五輪の舞台に立った。英語、フランス語、ドイツ語も堪能だったことから通訳も兼ねていたとか。その後、スキーの代表監督になった。

<3>日本人1号のマッターホルン登頂 アルピニストとしても歴史に名を刻む。暁星中時代から登山にもはまっていた。卒業後は日本山岳会会員になった。2日続けて富士山に登頂したこともあったという。留学中の23年、日本人初となるアルプス山脈の名峰マッターホルン(4478メートル)の登頂に成功。翌年には厳冬期の槍ケ岳(3180メートル)にスキーで挑み、制覇した。これは余談だが、同年にはサッカーチーム、アストラ倶楽部の選手として第3回全日本選手権(現天皇杯)も優勝している。

<4>64年東京五輪の聖火リレー踏査隊長 数々の実績を評価され、アジア初の五輪で、アテネから日本まで聖火を運ぶコースを踏査するチームの長に就任した。麻生は途中で帰京したが、踏査隊は61年(昭36)6月から約半年をかけ、病気、ゲリラ、自然の猛威など過酷な状況下で約1万8000キロを詳しく調査した。

数々の伝説を残してきた麻生は93年(平5)に心不全のため死去。93歳まで「風来坊」という人生をまっとうした。【上田悠太】