ギャラリーは、まばらだった。18ホールを終えた中嶋常幸(64=静ヒルズCC)は、少しの未練を抱いたまま、周囲をグルリと見渡した。強い日差しを浴び、額からは大粒の汗が噴き出していた。それを拭うこともせずに、少しの間、グリーンに立っていた。
5月24日。奈良県にあるKOMAカントリークラブ(パー72)で行われた関西オープン選手権、第2ラウンド。その日の観衆は、わずか2007人だった。126位から出た中嶋は意地の70で回り、通算2オーバーの81位まで浮上したものの、予選通過には届かなかった。1926年に産声を上げた国内最古のオープン競技への出場は、今大会を最後にする意向を固めていたため、報道陣に囲まれると寂しそうに語り出した。
「今の若い選手は、いいゴルフをするようになったんだけどな~。でもね、昔のさ、AONの時のような人間臭さって言うのかな、泥臭さがなくなってしまったから。見ている人は、思うことがあるんだろうね。パフォーマンスとしてはね、ゴルフの内容は、今の若い選手は非常にいいものを持っているんだよ。これも時代ですよ。今の時代に、昔みたいなことをやっても、流行らないのかも知れないね」
昭和のゴルフ界には、青木功(76)と尾崎将司(72)のライバル関係があった。そこに、少し年が離れた中嶋が加わった。青木(A)と尾崎(O)に一目置いていたからこそ、中嶋(N)はまばゆいばかりの輝きを放っていたあの頃を、自ら「AON」と口にすることは少なかったという。
だが、この大会が最後になるという郷愁が、そうさせたのだろうか-。確かな言葉で「AON」と言い、当時を懐かしみつつ、いつまでも話し続けていた。
「自分たちの頃は、『勝つ』ということは当然のことだったんだ。『彼に負けたくない』。そんな思いだよね。『試合に勝って、彼にも勝つ』-。それが目標だった。そういうのは、今の時代には、なくなってしまったのかな」
伝説は、数え切れないほどある。その1つが、日本オープンだろう。85年からの10年間で中嶋と尾崎が4勝ずつ、青木が1勝。3人以外の選手が優勝したのは93年奥田靖己の1度きりだ。特に87年大会、青木は最終18番で優勝を決める1メートルのパットを沈めると、1打差に迫っていた中嶋に向かい、「見たか!」と叫びながら拳を向けた。「コイツにだけは負けたくない」-。闘志をむき出しにした姿に、ギャラリーも夢中になった。古き良き時代だった。
「また見たいよね。(2人が)シニアに出てきてくれれば、見せられるんだけどね。青木さんも、もう、ほとんど出てこないから。仕方ないよね」
まだ、燃える闘志はある。それでも、年を重ねるごとに感じる現実もある。その狭間(はざま)にいる。
「気持ちはあるんだけど、体がついてこない。もう限界です。でも、見に来てくれた人を沸かせることはできたと思うんだ。今日の2アンダーは、プライドの2アンダー。ドライバーは振れていたし、手応えもあるんだけどね。『来年も出てください』と言ってもらえるうちが華だよね。自分としては、悔いはない」
72歳になったジャンボ尾崎は、まだレギュラーツアーにしがみついている。13年4月のつるやオープン以来、6年間も予選通過を果たしていない。それでも、這いつくばってでも、コースに姿を見せる。それが、生き様なのだろう。
青木は17年4月の中日クラウンズを最後に、ツアー出場がない。中嶋は今後、シニアツアーと、レギュラーツアーは厳選して数試合の出場になる。じょじょに、「引き際」を考えている。
昭和から平成をまたぎ、ゴルフ界には永遠に語り継がれるであろう3人のスターがいた。
ひとつの時代が、終わろうとしていた。【益子浩一】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)