米ツアー参戦の夢が実現しても、周囲の期待が重圧となり、宮里に重くのしかかった。東北高3年の03年に初優勝してから2年間で国内ツアー12勝。破竹の勢いで勝ち続けた。だが06年に米国を主戦場にしてからは「1勝」に手が届かなかった。09年7月26日、エビアンマスターズ(現エビアン選手権)最終日。グスタフソン(スウェーデン)とのプレーオフに勝ち、米挑戦4年目、通算83試合目で悲願の初勝利をつかんだ。

 空白の4年間-。国内で3勝を挙げたが、07年は未勝利に終わった。実はドライバーのスランプに陥り、引退が頭をよぎった。父でコーチの優も「やめたければ、無理しなくてもいい」と声をかけたほど深刻だった。そんな時、元女王ソレンスタムも師事したピア・ニールソンの助言を受けて復活。1度はどん底を見ただけに、エビアンの地でつかんだ優勝は格別だった。

 プロ転向した03年から、用具担当として支え続けてきたブリヂストンスポーツの中原創一郎は、こう語る。

 「エビアンは彼女にとって、大きなポイントになる試合でした。モヤモヤした中で勝った09年と、決して調子が良くない時期に勝った11年も大きかった」

 10年には世界ランク1位に立った。そして高校3年間を過ごした第2の故郷・宮城を襲った東日本大震災が発生した11年にエビアンで再び優勝。「いいニュースを届けたかった」。日本を思い、感極まって泣いた。

 この頃、宮里にかかる重圧は限界を超えていた。中原は「本人も周囲も『いよいよメジャーで勝つんだ』という空気が張り詰めていた。(米ツアーで)9勝しましたけど、本当はあの小さな体ではあり得ない。120%の力を出し切り、運も引き寄せた中での9勝だった」と言う。メジャー制覇という次なる目標を定めた時、既に張り詰めていた宮里の心は大きく揺れた。ついには13年9月のミヤギテレビ杯ダンロップ最終日に3パットでV逸したことが影響し、イップスになった。引退への道筋は、ここから始まっていた。【益子浩一】

(敬称略、おわり)