国内69勝、海外では3大陸で3勝、うち1勝は全米女子プロ選手権。この勝ち星の数だけではない。1967年のデビュー戦、日本プロゴルフ女子部創立記念競技以来、87年7月までの21シーズン、国内出場335試合で予選落ちはたった2試合。この驚異的な数字に樋口久子(61=富士通)の強さが浮き彫りなる。

樋口「勝利数や予選突破の数もそうですが、私は20年間にわたって、常に1年に1勝以上できたことを最大の誇りにしています。1年に7勝(73年)したこともあったけど、調子が悪くても1つは勝つことができた」

85年結婚、88年に長女を出産して1年8カ月の産休を取りながら、90年には2勝を挙げた。こういう人生にも、米国でプレーした影響が隠されていたのだろう。

樋口「1期生だし、アメリカで戦った先駆者なんだから、私を見ながら後を追って女子プロが育ってくる。お手本にならないと、という気持ちはいつもありました。アメリカでは、ある試合の前、ご主人が子供を背負いながらカートを運転して、練習ラウンドしている選手に出会いました。ああ、アメリカって何ていいところなんだろう、と思った。同じことを日本でやったら、どう言われるのだろう、とも。そういうのを見て、私も結婚したい、子供も欲しい、と思いました」

今、樋口の長女は大学2年になった。5~6歳の時、ゴルフのジュニアクリニックへ連れて行ったが、それきりだ。ゴルフはしていない。ゴルフにおいては確実に日本最高の才能なのに、もう受け継がれることがないのだろう。「でも、最近は練習場へ行っているみたい」。うれしそうな表情が一瞬よぎった。

樋口「彼女には母親をゴルフに奪われたという感覚があったのでしょう。そばにいてほしい時に、いてあげることができなかった。小学生の時、ゴルフを勧めたら『イヤだ』と拒まれた。『私に子供ができたら、こんなのはイヤだから』と…。ズキッときました。彼女の気持ちは分からなくはないので…」

勝利に執念を燃やし、突き進んだ日本最強のゴルファーという顔の裏側には、女性であり母でもあるもう1つのナイーブな顔がひそんでいた。メジャーで勝ち、日本で飽きるほど勝ち、そして今は日本女子プロゴルフ協会の会長としてタクトをふるう。しかし、樋口は決して「鉄の女」ではないのだ。

中京テレビ・ブリヂストンレディスオープンの会場、中京GC石野コースに赴いて話を聞いた時だった。大会最終日、全員がスタートした直後の静かな時間。樋口の週間予定を尋ねたら「月火はだいたい会議があります。水は前夜祭、木はプロアマ、金曜はステップアップツアーなどに行くことが多いですね。土日は試合会場へ行きますから…」。これでは休みが1日もないではないか。

「だから、今日は終わったらすぐに東京へ帰ります。家のこともしなければいけないですから」。すてきな母の笑顔であった。(つづく=敬称略)【編集委員=井関真】

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