9月開幕のW杯日本大会に向け、4月から週5回にグレードアップした連載「ラグビーW杯がやってくる」。前週の「記者が振り返るW杯の歴史」に続き、今週は、ワールドカップ(W杯)を経験した各世代の日本代表中心選手が、「俺のW杯」と題して当時を振り返ります。初回は87年の第1回大会で主将を務めたロック・フランカーの林敏之氏(59)です。

日本代表ジャージーを身にまとう林敏之(本人提供)
日本代表ジャージーを身にまとう林敏之(本人提供)

トレードマークのひげをさすりながら、神戸市内の一室で林は32年前の記憶をゆっくりと言葉にした。5月22日、ニュージーランドのオークランドで幕を開けた第1回W杯の数週間前。林ら日本代表は46歳の突進を真正面から受け止めた。

林 「このおっさん、えぐいな」「すごいな」って思いながら練習してたね。「ジャパン相手によぉ来るなあ」っていう感じでね。

予選がなく、16カ国の招待だったW杯の日本代表は26人。当時、戦術的交代が認められていなかった影響もあったが、遠征メンバーはスタッフ4人を加えた計30人だった。短期間だった国内での直前合宿では、今は78歳となった監督の宮地克実が入り、15人対15人の実戦練習が行われていた。

1年前の1月、新日鉄釜石の全国社会人大会8連覇を阻止した神戸製鋼で、林は海外プラントの資材調達を担当していた。「遠征前はみんな残業やった。1カ月抜けるなら『その分、仕事をしてから』っていうのが当たり前やった」。長期間の代表活動など考えられない時代であり、監督が強度の高い練習に参加する環境も想像の範囲内だった。

数々のテストマッチの経験から、国を背負う魂はあった。だが、記念すべき初戦で米国に18-21の黒星。トライ数は同じ3本だったが、キックがことごとく外れた。「思えば、初戦が勝てる試合やった」。第2戦のイングランドには7-60で大敗し、最終戦は大会を共催していたオーストラリアに23-42。91年の第2回W杯ではジンバブエに初勝利した一員となったが、欧州や南半球の強豪国との差を戦う度に痛感していた。

林 当時は日本のラグビーの勝ち方が見えず、悶々(もんもん)としていたね。差をどう埋めたらいいのか、分からずにずっとやっていた。差は「1チャンスをものにできるか」だったと思うけれど、そのための高レベルな試合、W杯までのピーキングができていたのか。昔と今は全然違う。でも(15年W杯の)エディー(ジョーンズ・ヘッドコーチ)の準備を見ていると、第1回の頃はのんびりしていたよね。

W杯を振り返る林敏之氏(撮影・松本航)
W杯を振り返る林敏之氏(撮影・松本航)

大会前は「よくわからん」と思っていたW杯は、すぐ「みんなが目指すもの」になった。その発展を肌で感じた経験があるからこそ「西洋と南半球以外でやる初めてのW杯。世界のラグビーの、1つの分岐点になる。日本はアジアの代表としてやらないといけない」と大会全体の成功を願う。

現在の肩書はNPO法人「ヒーローズ」会長。小学生世代の大会運営などを担い「人生のヒーローが、ここから、いっぱい生まれてほしい」と尽力してきた。圧倒的な強さで「壊し屋」と呼ばれた男はラグビーの裾野に立ち、国を背負う後輩からの熱い風を待っている。(敬称略)【松本航】

◆林敏之(はやし・としゆき)1960年(昭35)2月8日、徳島県生まれ。徳島・城北高、同大を経て神戸製鋼。W杯は87、91年と2大会連続出場。日本代表38キャップ。92年には東洋人初となる英国の名門バーバリアンズに選出。36歳で引退。異名は「壊し屋」、愛称は「ダイマル」。