今週は、日本ラグビーの「聖地」を紹介する。第1回は、日本ラグビー蹴球発祥記念碑。日本に初めて慶大にラグビーを伝えたとされる田中銀之助の曽孫で、元慶大ラグビー部監督の田中真一さん(52)に聞いた。
慶大ラグビー部が汗を流す日吉グラウンドの片隅に、細長い石碑がある。11年度から2季、監督を務めた田中真一は、その「日本ラグビー蹴球発祥記念碑」の前で一礼してから練習の指導をするのが日課だった。
慶応高を率いた10年度に9季ぶりの花園出場へ導いた。かねて政治家になる夢を抱き、16強進出した大会後に退任。慶大監督の就任要請を受けたのは、その直後だった。だが同時に、衆院選神奈川4区の候補者として最終面接に残っていた。断腸の思いで、1度はOB会に断りを入れたが、胸にはしこりがあった。
「私のDNAは慶大の監督をすることを、求めているのではないだろうか」
意を決し、面接の席で「ご辞退申し上げます」と政治家の道を断った。日本に初めてラグビーを伝えたとされる田中銀之助の曽孫は、目の前にあった夢を諦めて、監督を引き受けた。
銀之助の祖父に、幕末から明治を生きた平八がいた。生糸商売で財をなし「天下の糸平」と呼ばれた。1878年(明11)に東京株式取引所を設立。伊藤博文と親好があった。横浜にガス灯、熱海に電線をひいた。日本を豊かにしようとした精神は孫の銀之助に伝わり、学習院在学中の14歳でイギリスに留学しラグビーと出会う。帰国後、旧知の仲であるクラークとともに慶大、学習院大で教えた。
銀之助の孫にあたる真一の父洋一(享年59)は、慶応高時代、54年度の全国高校ラグビーで日本一になった。ラグビーを強制されたことは一度もなかったが、真一には思い出がある。
「物心がついていない幼い頃から、秩父宮に慶早戦を見に連れて行かれました。僕はドカベン、巨人の星に憧れて野球をしていたが、ラグビーをやるのは宿命なんだと思っていた」
慶応高ではSHとして高校日本代表候補に選出され、慶大1年時の日本選手権ではトヨタ自動車を破るのを見届けた。神戸製鋼では萩本光威、堀越正巳らの控えではあったが、日本選手権7連覇も味わった。
「ラグビーは人生そのもの。人間は苦しくなると諦めてしまうが、仲間のため、家族のためと思うと、頑張れる。『ONE FOR ALL、ALL FOR ONE』の精神は、誰かのために-。それは僕が、政治家を目指す理由のひとつでもあります」
慶大の監督を2季務めた後に、真一は銀之助の父が興した田中鉱山があった岩手を基盤にして政治家の道へ再出発した。現在は東京に戻り、参院議員の秘書として動き回る。
「平八の開拓者精神がなければ、銀之助はイギリスには行っていなかった。日本で初めてラグビーをしたあの日、ここでワールドカップが開かれることを誰が想像したでしょう。ボールを持って走る素晴らしさ、日本を豊かにする発想を残したい」
今年、日本にラグビーが伝わって120年になる。(敬称略)【益子浩一】