3大会連続のワールドカップ(W杯)に臨む日本代表フッカー堀江翔太(33=パナソニック)には「僕の体の全てを預けている」と語る存在がいる。15年W杯イングランド大会の約半年前の2月、首の手術を受けた。直後、京都・木津川市に治療院を構える佐藤義人氏(42)と出会った。トレーナーであり、ビーチサッカーの日本代表選手としても06年同W杯で8強。異色コンビによる二人三脚の足跡を追った。

17年10月、堀江翔太(右)のトップリーグ100試合出場を祝福する佐藤義人氏
17年10月、堀江翔太(右)のトップリーグ100試合出場を祝福する佐藤義人氏

W杯開幕まで2週間を切り、堀江が向かったのは小さな治療院だった。奈良に隣接した、緑豊かな京都・木津川市。今月8日から設けられた4日間の休養日のうち、3日間を佐藤と過ごした。最後まで体のメンテナンスにこだわり続けた。

堀江 パートナーですし、尊敬できる人。僕の体の全てを佐藤さんに預けている。佐藤さんが「そう」と言えば、僕はそうします。

始まりは4年前の15年春。W杯が半年後に迫った2月、首の手術を決断した。FW最前列で受ける衝撃が蓄積。首の骨が削れてとがり、神経を圧迫していた。約7時間の手術を乗り越えたものの、左手の握力は9キロにまで落ちた。複数の医師やトレーナーからは、決まって「W杯に間に合うかは分からない」と曖昧な答えが返ってきた。

手術から約3カ月後の5月、春に日本代表スタッフとなった佐藤に出会った。スクラムで味方のジャージーさえ握れず、ボールを扱うこともできない現状に焦っていた。素直に打ち明けると「治るよ。W杯も間に合う」と伝えられた。

堀江 「ちゃうな」と思った。みんなぼんやりとした答え。でも、佐藤さんは違った。ここまで言い切れる人はなかなかいない。「ここに懸ける」と思った。

半信半疑だった。それでも腹を決めた。佐藤から繰り返されたテーマは「中から詰めていこう」。見た目は分厚く見えていた体だが、骨格のバランスの悪さが理想の動きを妨げていた。使うダンベルは1~2キロ。地味なメニューは、時に4時間を要した。妥協は自分が許さない。佐藤が京都にいれば、毎日のように「ここ、どうしたらいいですか?」と電話を鳴らした。パナソニックの拠点である群馬から、京都へ車を走らせたことも1度ではない。

佐藤 本当に「彼氏、彼女じゃないか」っていうぐらい、常に連絡してきていた。いいかげんなことを言えば、彼のラグビー人生をダメにしてしまう。「一緒にやる」と決めた時点で、治療家生命をかける覚悟でした。互いが100%で努力しないと成り立たない。彼は心が折れて続かないようなメニューを、3~4時間かけて継続する力があった。信頼してくれるからこそ、期待以上のものを提供してあげたいと思った。

佐藤には確信があった。専門学校に通っていた21歳の頃、元サッカー日本代表中山雅史らを指導するトレーナーの夏嶋隆に出会った。治療は衝撃的だった。「何でこのケガで、こんなところを押すんだ…」。固定観念にとらわれない夏嶋の理論に影響を受けた。動作解析を繰り返し、研究を重ねた。「翔太のケガの原因は、首以外にもあった」。腕の筋肉、手首の位置、走りの癖まで、2人で徹底的に見直した。W杯のピッチに立つ目標は、本当にかなった。

堀江 9キロやった握力が30~40キロまで戻った。そりゃあもう、信じますよね。

18年7月、トレーニングを共にする堀江翔太(右)と佐藤義人氏
18年7月、トレーニングを共にする堀江翔太(右)と佐藤義人氏

15年9月19日、世界を驚かせた初戦の南アフリカ戦。体を張って相手の猛攻に耐え、積極果敢に前に出て歴史的勝利をつかんだ。興奮が続く英ブライトンのピッチで、抱き合った。

W杯後も、代表スタッフから外れた佐藤と二人三脚は続いた。16年2月、スーパーラグビー「サンウルブズ」が始動。堀江は初代主将を務めたが、1勝1分け13敗に沈んだ。過密日程で左手のしびれが再発。試合前に軽く肩を当てただけで、体に痛みが走った。春が過ぎると「体がきついんで、1回来てください」と救いの手を求めた。宿泊中の都内ホテルへ佐藤が駆けつけた。

堀江 チームも勝てないし、首の調子も良くない。プレーしていても(心が)グラウンドにいなかった。

佐藤 (堀江)個人ではもうダメな領域だった。京都で試合の映像を見ているだけでも分かった。いろいろな負の要素を、一気に背負ってしまっていた。

17年春。群馬を離れ、堀江は奈良に短期賃貸マンションを借りた。佐藤の治療院に3週間通い詰めた。時にビーチへ出向き、走る際に左肘を少し外側に引く小さな癖まで見直した。下半身メニューでも重りは最高で30キロ。パワーの出力に関節周辺が耐えられなければ、再び首や膝を痛めてしまう。従来通り、体の内側からじんわりと鍛える地道な作業だった。その繰り返しでステップ、キレ、動きのしなやかさがよみがえり、進化にも至った。

昨年11月には右足首の疲労骨折で手術。4年前は手術直後に焦りを募らせたが、佐藤と描く復帰へ向けた道に不安はなかった。別メニューが続いた今年2月の日本代表候補合宿(東京・町田市)では歩行映像を撮り、その度に京都へ送った。今春の実戦復帰で、代表の中心に舞い戻った。

佐藤 出会った時、体に大きな爆弾を抱えていたけれど、それ以上に伸びしろが、たくさんあった。15年よりもむしろ、いい体になっている。一緒に頑張ってきた集大成を存分に発揮して、世界に堀江翔太のすごさを広めてもらいたい。

33歳となった今「40歳まで現役」を誓い合う。

堀江 僕1人だけでは、ここに来られていない。佐藤さんにも喜んでもらいたい。W杯で活躍する姿、日本の勝利で恩返ししたい。

3度目の大舞台。新しい歴史を切り開く準備はできている。(敬称略)【松本航】

16年4月、トレーニングを共にする堀江翔太(左)と佐藤義人氏
16年4月、トレーニングを共にする堀江翔太(左)と佐藤義人氏

◆堀江翔太(ほりえ・しょうた)1986年(昭61)1月21日、大阪府生まれ。大阪・島本高、帝京大、ニュージーランド留学を経て、08年から三洋電機(現パナソニック)。09年に日本代表デビュー。現在61キャップ。13~14年はスーパーラグビーのレベルズ(オーストラリア)、16~19年はサンウルブズ(日本)でもプレー。家族は妻と娘2人。180センチ、104キロ。