其之弐
人生を変えた出会い
28歳のとき、劇的な出会いがあった。醸造業界で知らぬ人はいないと言われた巨匠・池見元広先生(当時の秋田県醸造試験場々長・主任鑑定官)だ。秋田の山内杜氏(さんないとうじ)で父親も有名な杜氏だった。地元秋田はもちろん、東京など全国の醸造試験場で業界を指揮した。「非常に熱心な先生でした。私にこういう仕事をしなさいと態度で示してくれた。自分にとって『酒の神さま』という存在」と松本氏は目を細める。例えば、酒の出来不出来を見て欲しいと電話をかけると、「いますぐ秋田まで、その酒を持って来なさい」と命じられた。勢いに身を任せ、試験筒片手に汽車に飛び乗って、秋田駅まで行くと、ホームで池見先生が待っていた。あいさつもせず、酒をひとくち口にふくむと、「10時間後に酒を絞れ」と、具体的に指示を出した。そして、そのまま駅で見送るような、職人気質な人だった。
「できるとか、できないとか関係ない。確実にやれと教わった」。生半可な考えを全て排除する、妥協のない厳しさで仕事に臨んだ。ゆかりの深い秋田では、県の醸造試験場初代場長だった花岡正庸氏が大正時代に長期低温速醸法を広めたと言われる。6度以下での仕込みなど北国ならではの寒さとの戦いで、池見先生の厳しさの原点となった。「麹はまず目で見て、鼻で匂い、口にふくんで感じろ」が口癖で、池見先生自身もその言葉通り、常に鼻の穴に麹が詰まったまま酒造りに没頭した。そんな“鬼の仕事”を目撃して以来、松本氏は地元の天狗舞、菊姫など4蔵をグルグル毎日のように回り、様々な酒に触れて五感を磨いた。杜氏たちと交流することで、酒造りに対する緊張感を保ち、互いを高めあった。池見先生に憧れた。
あるとき吉田酒造の社長に池見先生が言った。「全国新酒鑑評会で金賞を取りたい? 喜四志(きよし)君に酒を造らせてくれ。それで大丈夫」。その言葉通り昭和48年~昭和56年まで同酒造の「翁の友」が9年連続金賞を受賞する快挙を達成した。「特に昭和48年の酒は最高の出来だった。今でもあの酒を超えようと酒を造っている」。早熟の松本杜氏の業は30代に実を結んだ。
松本杜氏は「今の自分があるのは池見先生のおかげ。できるできないではなく、この世界でやっていく決意をした」と感謝する。奇しくも松本杜氏が玉乃光酒造の製造技術部長として上洛して間もなく、池見先生は次の時代の到来を告げるようにこの世を去った。「無骨だったが、いつも上を目指していた。もっと旨い酒を造ろうとしていた」。池見先生の遺志と時代を紡ぐように、松本杜氏が新たな光を放つ。(続く)


