池田勇太(29=日清食品)の祖父、直芳さんが4日に亡くなった。日本サッカー協会の取材中、ひとりで黙とうした私のまぶたの裏には、一昨年にブリヂストン・オープンで孫を応援していた姿が浮かんだ。

 千葉・袖ケ浦CCの12番パー3。勇太がティーショットを打つと、直芳さんは娘で勇太の母、ゆみさんの耳元に口を寄せる。「どっちに打った?」。右方向に打ち出したと聞くと、満足そうにうなずいた。

 ゆみさんは「ここのホールのことは、全部覚えてるって言うんですよ」と笑った。グリーンに近づくと、確かにボールはピンにピタリとついていた。

 実際の打球は、83歳の当時はもう見えなかったはずだ。しかしグリーンの傾斜と、ラウンドごとのピン位置は頭に入っていた。ティーグラウンド付近でほおに感じる風が、グリーン上ではどう舞っているかも、手に取るように分かる。

 何より勇太の球筋は、誰よりも明確に脳裏に描くことができた。だから、打ち出しの方向を聞いただけで、ショットがピンについたと確信できたのだ。

 勇太の球筋は直芳さんがつくった。孫がゴルフに興味を示すと、スパルタ指導で鍛え上げた。勇太は振り返る。「集中できなくて、スイングが乱れたりすると、アイアンのグリップでたたかれた。あれがホント痛てえんだよ。手のマメもやぶれて、足元には血と涙の水たまりよ」。素振りを繰り返した実家の玄関先のコンクリートには、やがて勇太の足形がついたという。

 勇太はやがて実力派ジュニアとして頭角を現した。千葉のコースを肩で風切って歩く、タメ口で生意気な天才少年の後ろでは、直芳さんが「後で言い聞かせますから」と頭を下げて回っていたという。

 「生意気」が「かわいげ」に昇華し、千葉のゴルファーがみな勇太を応援するようになった裏には、そんな直芳さんの尽力があった。千葉CC梅郷Cで行われた昨年の日本オープン。勇太は地元の大声援を背に、大会初制覇を成し遂げた。

 銀座のクラブで酔いつぶれかけた勇太が、急にしんみりとつぶやくのを何度も見た。「今のオレがあるのは、じいちゃんのおかげよ」。父のいない勇太の父代わりであり、ゴルフの、そして人生の師匠。永遠の別離に、落胆ぶりは計り知れないが「祖父にできる恩返しは、優勝あるのみ」と言い切る。

 泣いてばかりいたら、またアイアンのグリップが飛んでくる。天国のじいちゃんを喜ばせるには、あの日の袖ヶ浦の12番のように、じいちゃん理想の球筋を描き続けるしかないと心得ている。【塩畑大輔】