歴史と風格が漂う聖地、ボストンのフェンウェイパークのマウンドに、エンゼルス大谷翔平投手(27)が初めて上がりました。結果は7回を6安打11奪三振無失点の快投で3勝目を挙げ、打っても2安打1打点。あらためて元祖二刀流ベーブ・ルースの偉業とオーバーラップするものがありました。

ルースとフェンウェイパークは数々のエピソードに彩られ、深いつながりがあります。

フェンウェイパークは1912年にレッドソックスの本拠地として開場。当時はまだレフトに巨大フェンス、通称「グリーンモンスター」はなく、「ダフィーの崖」と呼ばれる急激な傾斜があった独特な形状でした。同年にチームは2度目の世界一となり、地元ファンは同球場が幸運をもたらしたと信じました。

2年後の1914年7月11日、「野球の神様」はフェンウェイパークで公式戦初出場。「将来有望な左腕投手」と評された19歳のルースは、「9番投手」で7回を8安打3失点、デビュー戦を勝利投手で飾りました。翌15年に18勝8敗、続く16年には23勝12敗と成績を伸ばし、防御率1・75で初タイトルも獲得。大リーグを代表する投手になりました。

現存するメジャー最古の球場で草創期に大活躍したのが、ほかならぬルースでした。16年のワールドシリーズでは、ドジャースとの第2戦に先発。初回に先制点を許したものの自ら同点打を放つなど、2-1で延長14回を完投勝利。その後、ワールドシリーズ記録となる連続無失点を29回3分2イニングまで伸ばしました。メジャー22年の現役生活で50以上もの打撃記録を打ち立てたルースですが、投手で樹立したこの偉業は、最も大事にしたい記録と言い伝えられました(1962年にホワイティ・フォードが33回3分の2で記録更新)。

ルースはドタバタ劇も引き起こしました。17年6月23日、セネタースとのダブルヘッダー第1試合に先発も、初回先頭打者に与えた四球の判定に怒りました。猛抗議した球審から「つべこべ言うと即退場だぞ」の売り言葉でますます激高し、いきなりパンチをお見舞い。ア・リーグ史上初めて審判への暴行事件となり、1人に投げただけで退場となりました。

物語はそれだけで終わりませんでした。ハプニングを受けて、のんびりベンチに座っていたアーニー・ショアが急きょマウンドへ。ルースが残した一塁走者は二盗失敗でアウトとなり、そこから打者26人連続アウトの快進撃。「幻のパーフェクト」を演じて、フェンウェイパークはまたもざわめきました。

ルースは18年から持ち前の打力を生かすために二刀流となり、同7月8日インディアンス戦では0-0の延長10回1死一塁でサヨナラ2ラン。同26日にも同じ状況でサヨナラ弾を打ちましたが、ともに記録は三塁打。当時はサヨナラの走者が生還した時点で試合終了となったため、幻のホームラン連発となりました。

19年には、フェンウェイで最後の登板になった9月20日ホワイトソックスとのダブルヘッダー第1試合で27号サヨナラ弾。1884年エドワード・ウイリアムソンのメジャー記録に並び、“飛ばないボール”と呼ばれた時代に、最終的には29本塁打のシーズン新記録を樹立しました。オフに金銭トレードでヤンキースへ移籍しました。

ちなみに、ウイリアムソンが打った本塁打の多くは、飛距離たった60メートルでのフェンス越えばかり。これだけのホームランを量産する選手は皆無の時代から突然現れたルースの姿に、人々は熱狂しました。

同一リーグとはいえ、西地区の球団とは年に1回しかないフェンウェイシリーズ。今年はルースが最後に二刀流として出場した試合から103年の時を経て、大谷が「3番投手」でルースの再来を演じました。さらにフェンウェイパーク特有の、長打性の当たりがグリーンモンスターなどに阻まれて単打になる“ロングシングル”を放つなど、見どころも満載でした。数々の「ルース伝説」をほうふつさせるプレーの連続に、感慨深いものがありました。(大リーグ研究家・福島良一)