エンゼルス大谷翔平投手(28)がメジャーで自身初の2ケタ勝利となる10勝目を挙げた。打席でも7回、日本人メジャー通算700号となる25号ソロを放った。1918年ベーブ・ルース(レッドソックス)以来104年ぶりに、「2ケタ勝利&2ケタ本塁打」を達成した。

元祖二刀流ベーブ・ルースでも1度記録しただけの「2ケタ本塁打&2ケタ勝利」の偉業は、戦火のシーズンで達成された。

1918年当時は第1次世界大戦の渦中にあり、米国も連合国に加わって参戦中。戦地に赴いた現役選手もいた。その影響で、大リーグの公式戦は前年までの155試合前後から125試合前後に短縮された。

同年、ルースは主に外野手で起用されたが、中4~5日のペースで先発マウンドにも立った。20登板のうち19試合に先発して13勝7敗、防御率は2・21。19先発のうち完投できなかったのは1試合のみで、完封も1試合あった。

打者としては、前年までの4シーズン通算9本だった本塁打を11本へと大きく増やし、ティリ・ウォーカー(アスレチックス)と並んで初タイトル。後に12度の本塁打王に輝く原点のシーズンでもあった。また、チームを直近4年で3度目のア・リーグ制覇に導いた。

ワールドシリーズではカブスと対戦し、ルースは第1戦に先発して完封勝利。第4戦でも4回に先制の2点三塁打を放ち、投げても8回2失点で勝利投手となった。チームは4勝2敗でこのシリーズを制し、ルースは出場した3度すべてで世界一に輝いた。第4戦の前にケンカで利き手の左手を負傷しながらマウンドに上がったという武勇伝も残す。1961年ホワイティ・フォード(ヤンキース)に破られるまで、29回3分の2連続無失点のワールドシリーズ記録を持っていた。

ルースは兵役を免除されたが同シリーズ後、軍需用の鉄鋼工場に配属され、工場内の野球チームに所属したという。ドイツの降伏により同年11月に終戦を迎え、気兼ねなくプレーできるようになったルースは翌年以降、大打者として本塁打を量産していく。

翌19年は、当時のシーズン記録を大きく塗り替える29本塁打を量産したが、投手では9勝5敗で惜しくも2年連続の「2ケタ本塁打&2ケタ勝利」を逃した。