日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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甲子園の奪三振王、板東英二の訃報が高校野球の季節に届いたのは運命を感じずにはいられなかった。7月22日逝去。86歳。プロ野球出身で、解説者、司会、俳優、タレントと、あれほどマルチに活躍した人物は見当たらない。
レジェンドの死去が公式サイトで伝えられた28日は、オールスター戦が開催され、オーナー会議など球界行事が複数あった。スポーツ以外のイベント、話題もめじろ押しなのに、各メディアの反響は想像を超えていた。
プロ通算435試合に登板した中日投手だが、野球界にとどまらず各界からコメントが届いた。「板東英二」を語る上で避けて通れない人がいる。それが甲子園の徳島商戦で、延長18回を投げ合った男だ。
村椿輝雄--。
1958年(昭33)8月16日、第40回全国高校野球選手権記念大会の準々決勝対魚津(富山)戦。板東の名前が全国の高校野球ファンに知れ渡ったのは、この一戦が契機になった。魚津の投手村椿は、板東が亡くなった事実をテレビのニュースで知ったという。
「板東君は我々の世代の花形でした。残念ですね。90回の記念大会になった甲子園で会いました。向こうが『また100回大会も来ような』と言ってくれましたが、こちらは『そこまで生きてませんから』なんて冗談を言い合って別れたんです。それ以来、会ってなかったんですよ。なつかしさがこみ上げますね」
魚津は雪国のハンディを乗り越え、初戦の浪華商(大阪)から、明治(東京)、桐生(群馬)と勝ち上がった。だが三振をとりまくる板東とは裏腹に、打たせてとる村椿は「もともと実力が違ったし、バケモノのようでした」と言う。
両軍のほとんどの選手が、18回終了で同点のままなら再試合になる規定を知らなかったという。そして板東と村椿の投手戦は大会史上初の延長18回、0-0で引き分け再試合になった。
拙者が板東本人にこの一戦についてインタビューを試みたのは「17年2月8日、事務所にて」と取材メモにあった。立て板に水のごとく、能弁にしゃべる姿は、まるでテレビを心地よく見ているかのようだった。
満州生まれで、終戦した日本に引き揚げてきた際の話は悲惨で、徳島に住み着いた後も大変だった。
「毎日物を拾ったり、盗んだりして食べてました。麦飯ならいいほうで、おかずは小川でどじょうをすくって焼いて食べた。フナ、うなぎも捕ったし、上流から流れてくる沢ガニも。ニワトリが産んだ瞬間の卵もいただきましたね。タイミングが遅れると、イタチに負けるんですよ」
板東は再試合になった翌8月17日もマウンドに立った。村椿は監督・宮武英男の指導で先発を回避。板東が2試合で計216球を投げ抜いた魚津戦を語るときは、さらに熱っぽかった。
「ぼくはまったく疲れはなかったです。だってナイターになってからは涼しゅうて、涼しゅうてね。ベンチにはヤカンに氷の入った麦茶があった。そんなもん飲んだことのない、ごちそうでしたからね」
なにしろこの年4月の春季四国大会では、高知商戦で16回、中1日の高松商戦で25回、計41イニングを投げた。現在の高野連が18回終了時点で決着がつかない場合は打ち切り、引き分け再試合のルール改正する引き金になった。
結局、徳島商は魚津に3-1、準決勝の作新学院(栃木)は14奪三振で4-1と勝利したが、決勝で柳井(山口)に0-7で敗れた。
ただ板東の計6試合、83奪三振は、今も1大会最多奪三振記録として輝く。村椿は「うちと徳島商との試合ばかりが大きくクローズアップされたのは、優勝した柳井にご迷惑をかけたと、今でも申し訳ない気持ちなんです」と神妙に回想する。
「当時は非科学的で、投げた後は肩を冷やしちゃダメだといわれて毛布みたいなもので温めたし、監督からは水泳は禁止だなんていわれましたよ。時代は変わりましたねぇ」
“阿波の怪腕”と投げ合い、こちらも北国に咲いたエースは「板東君には感謝ですよ」としみじみと追憶するのだった。(敬称略)



