巌流島決戦でアントニオ猪木を締め上げるマサ斎藤さん(1987年10月4日撮影)
巌流島決戦でアントニオ猪木を締め上げるマサ斎藤さん(1987年10月4日撮影)

ツバを飛ばさんばかりの勢いで、新日本プロレスの元役員、上井文彦氏はしゃべっていた。

「知ってますか? ビッグバン・ベイダーが(新日本に)来たのも、NWOを日本に引っ張ったのもマサさんなんですよ? 功績を思えば、もっと評価されないと」

2月15日、大阪市の城東KADO-YAがもよんホール。数分前に名刺を切ったばかりの記者に訴えた。昨年7月14日に他界したプロレスラー・マサ斎藤さん(享年75)の追悼興行「マサ斎藤メモリアル」の開始前のことだ。

マサ斎藤と言えば、多くの人はアントニオ猪木との「巌流島の戦い」を思い浮かべるだろう。87年、時間無制限&ノールール&ノーレフェリー&無観客というとんでもない設定で、2時間超の激闘を展開した。しかし、当時ただのプロレスファンだった私は、それ以前の印象がはるかに強い。83年に長州力が藤波辰巳(当時)に“かませ犬発言”で牙をむき、革命戦士としてのし上がった。現在のユニットや軍団抗争の走りと言える革命軍、維新軍の参謀格で長州らの活躍を陰で支えた。

AWA世界ヘビー級選手権で念願のタイトルを獲得したマサ斎藤さん(1990年2月10日撮影)
AWA世界ヘビー級選手権で念願のタイトルを獲得したマサ斎藤さん(1990年2月10日撮影)

おもしろいマイクパフォーマンスはない。存在感は圧倒的なのに、あまり表に出ようとしない。だが、当時高校生だった記者は「なんちゅうオッサンや」と思っていた。ぽっこりオナカと不似合いな、鍛え抜かれた僧帽筋、上腕筋、ぶっとく引き締まった両太もも。ロングタイツを履いたレスラーは今も昔も数多いが「このオッサンが1番似合ってる」と思った。そして、繰り出すバックドロップ。長州力の“ひねりを加えたバックドロップ”もすごかったが、マサ斎藤のそれもえげつなかった。「なんでシングルでもっとビッグマッチが組まれへんのかな?」と普通に思っていた。

アマレスのヘビー級代表で64年東京五輪出場。65年に日本プロレスでデビューし、東京プロレス崩壊を経て、67年から単身渡米。一匹おおかみで暴れた。米国ではトップヒールだったが、日本では徹底して、脇役に徹した。新日本のフロント、プロモーター的な立場での活躍も、やはり表に出ることを嫌っているように、職人的な仕事に徹していたように思う。

要はマサ斎藤がいなければ、という話だ。長州の大ブレークもなかったと思うし、現在のプロレスで当たり前となったユニットもなかったと思う。

追悼興行の最後に、マサ斎藤の妻倫子さんがリングに上がってマイクを握った。パーキンソン病による闘病生活の末に逝った夫。「私がここに出てきてすみません。悔しいです。悲しいです。本当はここに、マサ斎藤が立っていないといけないのに。マサ斎藤の名前を、みなさん、少しでも長い間、心にとどめておいてください」-。

倫子さんの訴え、叫びを聞いて、泣きそうになった。【加藤裕一】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

マサ斎藤追悼イベントでファン、関係者に感謝を述べる倫子夫人(2019年2月15日撮影)
マサ斎藤追悼イベントでファン、関係者に感謝を述べる倫子夫人(2019年2月15日撮影)