元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。力道山にスカウトされ1960年(昭35)に日本プロレスでジャイアント馬場さん(故人)とともにデビュー。72年に新日本プロレスを旗揚げし、プロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦など数々の名勝負を繰り広げた。89年には参議選で初当選した。近年は腰の手術に加えて心臓の難病「全身性アミロイドーシス」も患い、入退院を繰り返していた。

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プロレスの隆盛は、力道山の出現、そしてその弟子であるジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんによって形作られた。猪木と馬場-。力道山の死後、たもとを分かった2人は、互いに切磋琢磨(せっさたくま)しながら、プロレスの黄金時代を築いた。

60年4月11日、東京・人形町にあった力道山自宅横の道場で2人は初めて出会った。猪木さんは移民先のブラジルで力道山にスカウトされ、迎えに来た力道山運転の車で道場に到着。プロ野球をあきらめ、プロレス転向のためテストを受けに来ていた馬場も同じ日に道場に来ていた。

ただ、待遇は最初から違った。209センチの長身でプロ野球上がりの馬場は、入門の月から月給をもらうなど特待生扱い。猪木さんは力道山の付け人でただの練習生。入門当初は、近所のラーメン店で1杯のラーメンを2人で分けて食べたり、馬場から古い背広を譲られたりと兄弟のように過ごしたこともある。

デビューは60年9月30日と同じ日だった。しかし、翌61年から馬場は海外武者修行に出された。入門以来、1度も殴られたことがない馬場に対し、猪木さんは付け人ということもあり、理不尽な暴力をたびたび受けた。入門当初の2人の違いを「オヤジ(力道山)は馬場さんを後継者として育てているんだなと感じた」と猪木さんは述懐した。

63年に力道山が亡くなった後、日本プロレスでタッグを組んで人気を博したがが、やがて別の道を歩むことになる。71年、クーデターの嫌疑により団体を追放された猪木さんは、72年1月に新日本プロレスを旗揚げ。一方、猪木さんを追い出した形となった馬場も、日本プロレスに辞表を出し、72年10月に全日本プロレスを旗揚げした。

それぞれが団体のトップとして再出発を図ったが猪木さんの頭の中に「全日本が本家、新日本は分家」の思いは消えなかった。馬場の「王道」に対し、猪木さんは「ストロングスタイル」。全日本がビッグマッチを主に日本武道館で開催すれば、新日本は蔵前国技館。両者の争いは「隅田川決戦」と言われ、プロモーターを巻き込んだ激しい興行合戦が展開された。当時を猪木さんは「5歳も年が離れていたから最初は兄貴みたいな感じ。でも、そのうち幹部連中の対立が生まれてね。誰だって、こいつには負けないと思うのは当たり前ですよ」と話した。

力道山時代からのプロレスを守る馬場に対し、猪木さんは興行戦争の中で、本家との違いを見せるために新たな挑戦を次々に打ち出した。ムハマド・アリと戦った異種格闘技路線に、東京ドームなど大規模会場での大会開催。新たな挑戦が新たなファンを獲得し、猪木さんの存在は世界的に馬場をしのぐほどになった。裏を返せば、馬場の存在がなければ、異種格闘技やその後のPRIDE、RIZINなどは生まれなかったかもしれない。

猪木さんは、新日本設立以来、馬場や全日本プロレスをあえて無視し続けた。取材の際に馬場や全日本のレスラーの話を聞いても「見たことがない。知らない」と素っ気なかった。18年暮れにインタビューであらためて馬場との関係を問うと「オレと馬場さんは合わせ鏡みたいなもの」と称し、決して交わらなかったライバルに思いをはせた。その際に、突然、猪木さんは「小橋建太と初めて話したんだけど、馬場の遺伝子というか、力道山時代の我々が先輩から聞かされた話の、大事な遺伝子を感じたよ」と切り出した。その顔は、懐かしいものを思い出しているような温和な表情になっていた。翌19年2月に両国国技館で行われた「ジャイアント馬場没20年追善興行」に猪木さんが来場しあいさつ。翌日の紙面には「劇的和解」の文字が躍った。【桝田朗】(敬称略)