61歳の若さで、7月31日に死去した元横綱千代の富士の九重親方。担当記者が取材時の思い出とともに、その人生と人柄を振り返る。【構成=河合香】

●NHKの瞬間最高視聴率は65・3%

 2年半かかったが、1978年(昭53)年の初場所で幕内に返り咲いた。連続勝ち越し後の夏場所では、あこがれで目標だった大関貴乃花(当時)に初挑戦して寄り切った。敢闘賞で初の三賞を獲得し、翌場所新小結となった。79年春場所に初めて右肩脱臼でまた陥落した。この時、後援する医師を頼って1カ月入院したが、固定した右肩以外は徹底して鍛え、食事も病院食でなく栄養を優先。退院時には見違えるほど太った。筋肉のよろいを着ける本格トレが始まった。

 夏場所は途中出場で勝ち越して再入幕を決めた。その後の巡業も契機になった。貴ノ花から「早く上がってこい。たばこをやめれば太る」とアドバイスされた。すぐに禁煙して50万円のライターも隅田川に投げ捨て、あめをなめて我慢すると効果てきめん。初めて体重が100キロ台に乗った。ただ。その裏話として貴ノ花は最後まで禁煙しなかったのだが。

 さらに苦手だった琴風を追い回して出稽古した。80年九州場所では6連敗だった琴風にも勝って11勝。3場所連続4度目の技能賞を獲得した。相撲改造、筋力トレ、体重アップ、苦手克服でいよいよ開花の時が来た。

 81年初場所は飛ぶ鳥を落とす勢いで最初のウルフ・フィーバーになった。初日から14連勝で千秋楽に1敗の北の湖と激突した。つり出されたが、北の湖がヒザを悪いのを見抜く冷静さがあった。決定戦は右上手出し投げで初優勝と大関の座をつかんだ。

 NHK中継の平均視聴率52・2%、瞬間最高視聴率65・3%は、いまだに大相撲歴代トップと日本列島が沸きに沸いた。この場所で人気者貴ノ花が引退。入れ替わるように看板力士となったが、貴ノ花は「後継者ができた」と話した。この10年後に貴ノ花2世が千代の富士に引導を渡すことになる。

●史上8人目、角界初の国民栄誉賞受賞

 新大関の春場所は及第点の11勝を挙げた。夏場所は北の湖と優勝争って、13勝で1差の準優勝だった。名古屋場所で綱とりは初日こそ隆の里にはたき込まれたが、その後は快調に白星を挙げた。千秋楽は北の湖との相星決戦となったが寄り切り。14勝で2度目の優勝を飾り、大関を3場所で駆け抜けて、文句なしの58代横綱へと昇進した。

 81年秋場所が新横綱場所だったが、夏巡業で右足首捻挫していた。初日は横綱初勝利も2日目に初黒星で再び足を痛めて途中休場した。「不祥事」「短命か」などと批判された。再起の九州場所はいきなり重圧がのしかかり、しかも若乃花が全休、北の湖が途中休場と1人横綱の重責もあった。その逆風にも3敗しながら決定戦となり、朝汐を寄り倒して優勝。大粒の涙を流したが、この不屈の闘志が千代の富士の一番の源で、実に勝負強い横綱だった。

 優勝決定戦は6戦全勝と負け知らず。朝潮と双羽黒に各2勝、北の湖と唯一の同部屋横綱決戦となった北勝海に1勝している。85年初場所は新両国国技館のこけら落とし。北の湖が3日目で引退したが全勝優勝した。30歳代になって円熟味を増し、両国国技館では7連覇と主役の座を守り続けた。

 88年秋場所では北の湖を抜く25度目の優勝。九州場所では夏場所からの連勝を史上2位の53に伸ばした。千秋楽には大乃国に連勝を止められたが、これが昭和最後の一番となった。

 89年秋場所では通算965勝目で最多記録更新し、全勝優勝を飾った。「国民に深い感銘と勇気を与えた」として、史上8人目で角界初の国民栄誉賞を受賞した。協会も功績を評価して北の湖に続く2人目の一代年寄贈呈を決めたが、本人が「長く続く年寄名跡の部屋を持ちたい」と辞退。この時には、のちに部屋継承の流れができていた。90年春場所では1000勝の大記録も達成した。(続く)