ちょうど70年前、大相撲の本土俵から4本柱がなくなった。1952年(昭27)9月21日、大相撲秋場所は東京・蔵前仮設国技館で初日を迎えた。観客から土俵を見やすくするため、4本柱を撤去。つり屋根にして、柱の代わりに4色の房を下げるようになった。

それまで伝統的に土俵には4本柱が立ち、屋根を支えていた。1921年ごろからは柱に「満員御礼」の札が貼られるようにもなっていた。しかし、当時の出羽海理事長(元横綱常ノ花)らが中心となり、観客のために4本柱の撤廃を決断した。

当時の日刊スポーツは「年寄たちが観客本位に目を向けて”見よい大相撲”に頭を切り替えたことは、真に賢明なことといえよう」と書いている。

この場所から十両、幕内の土俵入りは、観客の方を向いて実施するようになった。しかし、初日の土俵入りは力士の呼吸が合わず所作がばらつき、観客も苦笑い。いつしかこの試みは取りやめとなった。

伝統を重んじる相撲界だが、4本柱の撤去や、ほかのプロスポーツに先んじて導入したビデオ判定は、大相撲の柔軟性を象徴する事象として紹介されることが多い。

この歴史的な本場所は、のちに44代横綱となる関脇栃錦が14勝1敗で初優勝。9度目の技能賞も獲得した。場所後は大関に昇進した。【佐々木一郎】