経済企画庁長官などを務め、今月8日に多臓器不全のため死去した作家の堺屋太一氏の葬儀・告別式が17日、東京都港区の青山葬儀所で営まれ、橋下徹氏が涙ながらに弔辞を読んだ。

  ◆  ◆  ◆

先生は、優しいだけではありませんでした。戦いの時には、スイッチが入っちゃって。選挙のときなんか、先生の魂の炎が、天を突き上げるような勢いでした。そのピークが、大阪都構想。あの光景は忘れもしません。

新世界のど真ん中、通天閣の下で、僕は下から上を見上げていましたが、カラフルなネオンがついた通天閣を背負いながら、「大阪から東京を揺るがす、大阪から日本を変えるんだ」と。僕はその姿を見て、「大阪の託す堺屋太一、ここにあり」と感じました。本当にかっこよかったです。

(都構想の住民投票は)最後は否決されましたが、先生はワンワン泣いてくださって、「次世代の土台になったよね。これくらいの苦労、また次の乗り越えられるよ」「明治維新の時も敗戦後の日本も、こんな苦労じゃなかったんだから」。そう、おっしゃってくださった。(否決後の)記者会見の会場は、ものすごい感情が沸き立っていたような感じでしたが、ぼくはその言葉を聞いて、自分の中から感情がさっと引いて、その後の会見で、すがすがしく政治家引退の宣言ができました。

本当にこのような政治家の人生を僕に与えてくださり、本当にありがとうございました。自分の人生、本当に豊かになりました。

どれだけ世間から批判を浴びても、それに耐えられる精神力を、つけてくださった。目標のためには、あの手この手、奇策を弄(ろう)してでも前に進んでいく。そういう粘り強さも身につけてくださいました。

こんなに多くのものを与えてもらったのに。僕は先生に、配慮に欠けたことばかりやっていたように思います。おとといも、松井さんと酒を飲み、先生の話をしていましたが、松井さんに「橋本さんは、先生にいろいろ迷惑をかけたんじゃないの、困らせたのではないの」といわれました。それに気づかない僕も本当にだめな男なんですが。そういうこともたくさんあったと思います。本当にすみませんでした。

そういうこともあって、2025年の大阪万博、絶対先生にテープカットに立ってもらいたかったです。

今、松井さんと吉村(洋文大阪市長)さんと関西が一致団結して、大阪万博に向けて動き始めています。これも、先生のパッションと情熱です。そのたまものです。先生が成功を収められた1970年の大阪万博を超えようと、みんな張り切っています。

先生、2025年には、ちょっと(天国から)おりてきてくださいよ。先生は高度成長時代を走り抜けてこられて、ちょっとお疲れになったかと思います。25年まで少しお休みになられて、またスイッチを入れて、そのときには大阪万博、いっしょにグルグル走り回りましょう。

本当にありがとうございました。