廃線、廃駅となった線路や駅には、かつてあった場所にすら行けなくなっていることがある。すっかり自然に帰って危険となっている場所が多いが、吾妻線の川原湯温泉駅はダム建設に伴って駅の位置が変わり、元の駅は湖の中である。訪問時はまだ旧駅が現役だった。吾妻線の後編です。(訪問は2012年5月)

 
 
〈1〉瓦ぶきの木造駅舎だった旧川原湯温泉駅。移転が決まっても植え込みはきれいに手入れされていた
〈1〉瓦ぶきの木造駅舎だった旧川原湯温泉駅。移転が決まっても植え込みはきれいに手入れされていた

大きくて美しい瓦ぶきの駅舎だった。終点の大前から戻る形で降り立った駅が川原湯温泉である(写真1~3)。1946年の開設時以来からの姿を保つ。私の認識だけになってしまうが、訪問時点で、このような木造駅舎は吾妻線で唯一だったはず。しかも改築の予定はなかった。なぜかというと八ツ場ダムの建設に伴い、線路の付け替えと駅の移転が決まっていたからだ。

〈2〉今は吾妻線では見られない115系湘南色で訪れた
〈2〉今は吾妻線では見られない115系湘南色で訪れた
〈3〉川原湯温泉の駅名標
〈3〉川原湯温泉の駅名標

吾妻線は国鉄時代に敷設された路線としては、比較的新しい部類に入る。川原湯温泉駅の開設より1年ちょっと前の45年1月の開通だ。元号で言うと昭和20年1月。終戦の7カ月前だ。軍需用の鉄鉱石を輸送するためのもので当時は貨物専用の路線だった。こちらのコラムでも阪神武庫川線(3月5日)、東海道本線新垂井線(4月16日、23日)と最近、戦時中にできた鉄路の話を書いたが、鉄道は当時、輸送の主役だっただけに戦争絡みの歴史は多い。

その後、終戦直前から直後にかけて旅客輸送が始まり、閉山に伴って鉄鉱石輸送はなくなったが、路線には数々の温泉をはじめとする娯楽地が多いことから、60年代には早々に電化され、71年に現在の長野原草津口~大前まで到達している。下車した川原湯温泉駅も、その時に川原湯駅から改称された。

〈4〉当時の川原湯温泉の入り口
〈4〉当時の川原湯温泉の入り口
〈5〉私を追い抜いていった高校生は坂の向こうに消えていった
〈5〉私を追い抜いていった高校生は坂の向こうに消えていった

もちろん温泉に入る気満々でやって来た。共同浴場を目指す。温泉街までは10分程度で十分に徒歩圏内だが坂がある。アーチ状の入り口に歴史を感じた。写真を撮っていると、同じ車両で降りたと思われる女子高生に追い越された(写真4、5)。温泉街に自宅があるのだろうか。週末だったが部活の帰りかな、なんて思っているうちに、もたもたしているおじさんを尻目に坂の向こうに消えていってしまった。有名な「王湯」さんに入る(写真6)。源頼朝が見つけたとされる川原湯温泉。地元の方と思われるお客さんで、お昼から、かなりのにぎわいを見せている。年季の入った湯船につかり、心地よい気分になって駅に戻った。

〈6〉当時の共同浴場「王湯」
〈6〉当時の共同浴場「王湯」
〈7〉1946年開設の駅舎は開業当時のままだった
〈7〉1946年開設の駅舎は開業当時のままだった
〈8〉木枠の改札口
〈8〉木枠の改札口

あらためて駅を堪能しよう。改築予定がないので、そのままの姿を保っていたともいえる木造駅舎の文字や改札の姿は、国鉄時代からそのままだ(写真7、8)。移転は決まっても植え込みは手入れが行き届いていた。木枠の窓口は今も各地で残るが、実際に駅員さんがいて機能しているものは、8年前でもかなり希少価値だったのではないか。さらに言うと、このころは特急停車駅でもあった。

〈9〉リゾートやまどりの停車駅でもあった
〈9〉リゾートやまどりの停車駅でもあった

いわゆるジョイフルトレインの「リゾートやまどり」で帰路につく(写真9)。私が訪問した2年後に駅は現在地に移転。訪ねた駅は2度と行けない場所に消えた。駅とともに温泉街も移転し、王湯さんもこちらで健在のようだ。実は、そこで忘れ物をした。もうかなり暑い季節で、日帰りながら用意周到に着替えを準備したのはいいが、ここまで着ていたシャツをかごに入れたままにしてしまったのだ。さすがに私のシャツごと湖に消えたわけではないだろうが、追い越していった高校生とともに「今は何を?」と、ちょっと気になる。旧駅を新駅の近くに再現する計画だという。そうなれば新駅と新たな温泉街を訪ねてみたいと思っている。【高木茂久】