かつては北陸本線の糸魚川から分岐していた大糸線は北陸新幹線の金沢延伸で北陸本線の一部が第3セクターに移管したことにより、JR西日本の在来線他路線と接続しない孤立した区間となっている。かつての塩の道をなぞる路線は鉄道だけではなく、東日本と西日本のまさに境界を行くなど景色だけでなく見どころもいっぱい。絶景の旅館にも宿泊し、私にとってのJR西日本最後の区間は大満足の旅だったが、最後に4903分の3というオチが待っていた。(訪問は9月17、18日)

全国に「あえて乗っていないJR路線」がいくつかある。「老後の楽しみ」としてあえてとっていた。早々に完乗してしまうと目標がなくなるように感じていたからだ。だが、いつの間にかいいトシとなり体の方に問題が出てくるかもしれないということで今回出かけたJR西日本で最後の大糸北線。宿は平岩駅からすぐの姫川温泉だった。

文字通り、姫川を挟んで両サイドにある温泉で私がお世話になったのは朝日荘さん。100%源泉かけ流しのお湯は香りも含め、これはクセになる温泉ファンもいるのでは? と尋ねてみると、やはりその通りで熱心なレギュラーのお客さんがかなりいるのだそう。そして何といっても鉄オタをくすぐるのは宿からの眺望だろう。目の前の鉄橋を渡るキハ120の姿は絶景。さらに言うと露天風呂からもトレインビューが味わえる。料理も含め、すっかり満足してしまった。(写真1、2)

〈1〉部屋の目の前の鉄橋をキハ120が駆ける
〈1〉部屋の目の前の鉄橋をキハ120が駆ける
〈2〉夕食もおいしかった
〈2〉夕食もおいしかった

キハ120といえば、大糸北線はキハ120の北限であり東限でもある。JR西日本の非電化用車両なので当然そういうことになる。中国山地でいつも世話になる車両が遠く離れた北信越でも活躍する姿は感慨深い。

大糸線は大正期に信濃鉄道という私鉄が松本~信濃大町で敷設したのが始まり。大正のうちに早々に電化されたというから地方路線としては画期的である。昭和に入ると山中の難工事は国が行おうということになり、糸魚川と信濃大町それぞれからレールが伸びていった。戦前のうちに南側は中土まで、北側は小滝まで到達。その後、信濃鉄道は国鉄に買収され、大糸北線と大糸南線となった。

「大糸」とは(信濃)大町と糸魚川の頭文字をとった名称だと容易に想像がつくが、実は他の頭文字路線とはやや異なる。普通は水戸と郡山なので水郡線、高松と徳島で高徳線という具合に両端となるべき駅名の頭文字をつける。ならば松本と糸魚川を結ぶのだから「松糸線」となりそうだが、なぜか途中駅の(信濃)大町から1字いただいている。これは前述した通り、国鉄が工事した区間が信濃大町以北だったという理由による。ちょっとしたトリビアだ。

裏返すと途中から国が工事に乗り出すほどの重要路線だったということ。大糸線は古代からの千国(ちくに)街道に沿って敷設されている。「敵に塩を送る」で有名な塩の道だった。経済的な部分だけでなく、有事の際に日本海と太平洋を結ぶ軍事的価値も高いとされた。東西を分けるとされる糸魚川静岡構造線に沿っているため、地形は急峻(きゅうしゅん)で滑りやすい。戦後に開通した部分では1駅間で標高が100メートル以上違う部分もある。それでも難工事は国家のプロジェクトでもあったのだ。

ただし大糸線の全通は戦後10年以上がたった1957年。電化区間も伸び、67年に南小谷までが電化されたが、すでに自動車の普及が進みつつあるころで徐々に鉄路の存在感は失われていく。電化区間は伸びなかった。そして国鉄民営化。国鉄時代は大糸線の長野県最北が北小谷だったことで鉄道管理局の管轄も北小谷だったが、電化区間と非電化区間のすみ分けで南小谷がJR東日本と西日本の境界となった。さらには北陸新幹線の金沢延伸により、大糸北線は孤立したJR西日本区間となり、南小谷は在来線で唯一のJR東日本、西日本の境界駅となった。

姫川温泉の平岩は戦後の開通部分にあり、戦後らしくコンクリート製。新潟県最初の駅とあって始終着の列車も設定されている。実は私は大きな勘違いをしていた。平岩が糸魚川市なので朝日荘さんも新潟県だと思い込んでいたら違った。駅は新潟だが川を渡ると長野県だったのだ。宿のテレビで長野県の天気予報しかやらんなぁ、と尋ねるとすぐに橋を渡れる川が県境とのこと。山中の県境=峠と長年の刷り込まれすぎたのか。考えてみると廃線になった三江線沿線も同じ構造だった。(写真3~6)

〈3〉平岩は大糸北線では珍しいコンクリート駅舎
〈3〉平岩は大糸北線では珍しいコンクリート駅舎
〈4〉冬支度もすっかり整い始めていた
〈4〉冬支度もすっかり整い始めていた
〈5〉平岩の駅名標
〈5〉平岩の駅名標
〈6〉使用されていないホームにあるのは雪メーターか
〈6〉使用されていないホームにあるのは雪メーターか

9月ではあるが、雪用の車両もすでに態勢を整えていた。今は使われていないホームにある目盛りはおそらく積雪メーターだろうと思いながら糸魚川方面の列車に乗る。下車したのは頸城大野。ここまで来ると糸魚川の住宅街が広がる。駅名板の文字がかっこいい。ホームの花壇は地元の子どもたちによって、きれいに整備されている。(写真7~10)

〈7〉頸城大野の駅舎
〈7〉頸城大野の駅舎
〈8〉頸城大野の駅名板
〈8〉頸城大野の駅名板
〈9〉ホームの花壇はきれいに整備されている
〈9〉ホームの花壇はきれいに整備されている
〈10〉頸城大野の駅名標
〈10〉頸城大野の駅名標

再び山中へと折り返し、私にとっての大糸北線のゴールは根知である。全駅訪問達成。北線では唯一残った列車交換可能駅となっている。東西を分ける断層が見られるフォッサマグナパークの最寄り駅。無人駅となって久しいが、有人駅時代の痕跡は健在。「翡翠(ひすい)の里から」という詩が掲げられていた。決して本数が多いとはいえないが、こちらは週末も路線バスがある。糸魚川に戻り新幹線で金沢方面へと向かう。(写真11~15)

〈11〉根知の駅舎
〈11〉根知の駅舎
〈12〉根知の駅名板
〈12〉根知の駅名板
〈13〉根知は大糸北線で唯一のすれ違い可能駅
〈13〉根知は大糸北線で唯一のすれ違い可能駅
〈14〉駅舎内に掲げられていた詩
〈14〉駅舎内に掲げられていた詩
〈15〉根知駅前の観光案内
〈15〉根知駅前の観光案内

初日に旅程が大幅に狂ったおかげで、こちらも乗り潰そうと思っていたJR東日本の南小谷~白馬間が未乗車区間として残ってしまったが、よしとしよう。JR西日本はこれで完乗だ-と大いに満足したが、後日とんでもないことに気付いた。旅程変更のおかげで往路は糸魚川から1駅目の姫川まで歩いた。帰路は根知からバス。つまり糸魚川~姫川は乗っていないのだ。糸魚川~姫川は3・2キロ。JR西日本のホームページによると鉄道キロ数は4903・1キロだから4903分の3が未乗車区間として残ったというオチがついてしまった。(写真16、17)

〈16〉根知駅前バス停の時刻表
〈16〉根知駅前バス停の時刻表
〈17〉糸魚川駅前行きのバスがやってきた
〈17〉糸魚川駅前行きのバスがやってきた

まぁ、いいでしょう。かつては冬場に多くのスキー客を乗せた大阪からのシュプール号が走った大糸北線。今はトコトコとキハ120が走るだけだが、車窓美も温泉も、すべてが来ようと思えるものだった。案外と近いうちに3・1キロを埋めにやって来そうである。【高木茂久】(写真18)

〈18〉糸魚川駅で出発を待つ南小谷行き。2019年7月に撮影したものだが、この時は乗車はしなかった
〈18〉糸魚川駅で出発を待つ南小谷行き。2019年7月に撮影したものだが、この時は乗車はしなかった