エンゼルス大谷翔平投手(28)がダブル規定到達まで目前です。規定投球回まで残り1イニング。5日(日本時間6日)敵地アスレチックスとの最終戦に登板し、投打の規定クリアでシーズンを締めます。これは、1900年以降の近代メジャーでは、史上初の快挙になります。

記録としては参考扱いながら、19世紀の記録を調べてみると、投打両方で同一シーズンに規定をクリアした選手がいるようです。

たとえば、草創期を代表する二刀流選手で、1884年に投手3冠、86年には首位打者に輝いたガイ・ヘッカー(ルイビル・エクリプス)は82、83年と2年続けてダブル規定到達。左右両投げ両打ちのトニー・マレーン(エクリプスなど)は、82~84年まで3年連続クリア。同じく伝説の二刀流ボブ・カルザーズ(ブラウンズ)も87年、規定投球回以上の341イニングを投げ、かつ規定打席以上の436打席に立ちました。

とはいえ、19世紀の野球は現在と異質のものでした。1876年にナ・リーグが創設された当時、各チームの所属選手は11、12人程度。83年にボストンが優勝したときの選手は12人で、うち投手登録は1人のみ。外野手登録の選手も投手を兼任して実質、投手2人だけでシーズンを乗り切りました。他のチームも似たようなもので、投手は毎日のように投げ、かつ完投が当たり前。DH制ではないので投手の打席数も相当数あり、投げないときは野手を務めました。ダブル規定到達が可能な環境でした。

ルールも変遷を重ねた「混乱期」でした。最初はイギリスの国技クリケットのように、投手はアンダースローが決まりでした。83年にサイドスローが認められ、翌84年からオーバースローが解禁に。また、打者が好きなコースを要求できました。投手に投球の自由が認められるようになったのは87年からです。

また、「Base On Ball」もしくは「Walk」は9ボールから始まり、現在の「四球」に定まったのは1889年から。バットも現在のような断面が円形になったのは93年からで、四角いバットや一部に平面を持つバットも存在しました。その後、90年にバッテリー間の距離が50フィート(約15.2メートル)から現行に近い60フィート(約18.3)に変わり、投手の立ち位置もピッチャーボックスからプレートが用いられるようになりました。

記録の扱いで近代メジャーと一線を画す理由として、このように野球の形が定まっていなかったところがあります。

ちなみに、1920年代にニグロリーグで投打二刀流として活躍し、米野球殿堂入りしたブレット・ローガン(モナークス)もダブル規定到達を記録しています。1921年に投手として204イニング、打者として308打席。いずれも規定をクリアしました。

いずれにせよ、野球は19世紀と20世紀以降ではガラリと変わりました。最近は戦力分析がハイテク化し、選手もユーティリティー、ブルペンまで層の厚さが求められる時代。野球がさらに洗練化されている中で、1リーグ時代でも数えるほどだったダブル規定到達を成し遂げようとする大谷は、唯一無二の存在と言えるでしょう。(大リーグ研究家・福島良一)

エンゼルス大谷翔平(2022年9月29日撮影)
エンゼルス大谷翔平(2022年9月29日撮影)