東京都知事や衆院議員などを務めた作家の石原慎太郎(いしはら・しんたろう)さんが1日午前、東京都大田区の自宅で死去した。89歳。膵臓(すいぞう)がんを昨年10月に再発していた。神戸市出身。一橋大在学中の1956年(昭31)に、小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、以来ベストセラーを次々に発表。タカ派の論客としては歯に衣(きぬ)着せぬ慎太郎節で知られ、時に物議も醸した。強烈な存在感を放ちながら時代を駆け抜けた“太陽”は、弟の大スター、故裕次郎さんのもとに旅立った。葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れの会を開く。

   ◇   ◇   ◇

石原慎太郎さんの息子4人は1日、都内の自宅で取材に応じ、父親の最晩年の様子などを語った。それによると、石原さんは膵臓がんを患い、昨年10月に再発。年末には短編小説をまとめ、「これが俺の遺作だな」などと喜んでいたという。その後も執筆活動は続け、1週間前までは毎日1度は起き上がり、1~2時間は机に向かっていた。最期を看取ったという四男の延啓さんは「連絡を受け駆けつけたところ、呼吸が荒く天井を見つめている状態。そうするうちに呼吸がすーっとおさまって、あっという間に息を引き取った感じです」などと説明した。

スラリと目立つ長身、いたずらっ子のような笑顔、鋭い舌鋒(ぜっぽう)…。その歩みは、作家と政治家を行き来しながら、時に人々を魅了し、時に賛否を巻き起こしながらも、いつも強烈な存在感をみせてきた。

極めて個性的な“太陽”は、昇った時から鮮烈な光を放った。一橋大在学中の23歳で芥川賞を受けた「太陽の季節」は、若者の無軌道な生き方を通して新しい価値観や感性を描き、主人公が性器で障子を破るシーンは賛否両論を起こした。映画化では弟の裕次郎さんが俳優デビューし、大スターへの道を歩み始めた。登場するような破天荒な若者たちは「太陽族」と呼ばれ、髪形をまねた「慎太郎刈り」まで大流行するなど、前代未聞の現象となった。

その後も終生、作家であり続けた。三島由紀夫との親交は有名。89年にはソニーの故盛田昭夫さんとの共著「『NO』と言える日本」、96年には裕次郎さんの生涯をつづった私小説「弟」、2016年にはかつて痛烈に批判した田中角栄元首相を題材にした「天才」など、話題作、ベストセラーを次々発表した。

文壇で輝く一方で、68年には政治の世界に乗り込んだ。参院全国区に自民党から立候補しトップ当選。72年に衆院に鞍替えし、運輸相などを務めた。党内タカ派政策集団「青嵐会」を結成し、中核を担った。95年、在職25年表彰の日に「去勢された宦官(かんがん)のような国家に成り果てた」とあいさつし、議員辞職を表明した。99年には、東京都知事選に出馬し初当選した。約13年半に及んだ都知事時代には、ディーゼル車の排ガス規制を推進し、主導した新銀行東京は追加出資で批判を浴びた。都による沖縄県・尖閣諸島の購入も計画。東京五輪招致の旗振り役になり、東京マラソンの創設も主導した。

4期目の途中、12年に知事を辞職し、太陽の党を設立。当時の橋下徹大阪市長が率いる旧日本維新の会と合流し、同年の衆院選で国政復帰した。14年の衆院選で落選し、政界を引退。自主憲法制定を主張してきただけに、心残りを聞かれると「憲法の1字も変わらなかったこと」と答えた。そして「キャリアの中で、歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたのは、政治家としても物書きとしても非常にありがたい、うれしい経験だった」と振り返っていた。