ドジャース大谷翔平投手の活躍で昨年、ロサンゼルス(LA)を訪れる日本からの観光客の数が飛躍的に増え、「球場に日本人が大挙して押し寄せている」と現地メディアが報じたほど大きな話題となりました。そして今年も大リーグが開幕し、さっそく多くの日本人観光客が海を渡ってLAにやってきています。

提灯など日本らしさが感じられるリトルトーキョー
提灯など日本らしさが感じられるリトルトーキョー

ドジャース観戦をメインにLAを訪れる観光客の多くが、リトルトーキョー周辺に宿泊しており、リトルトーキョーに日本人が再び戻ってきたことも現地では大きな話題の一つとなっています。日系のミヤコ・ホテルの壁に昨年3月に誕生した高さ約45メートル、幅18メートルの大谷投手の巨大壁画は、リトルトーキョーの新たなシンボルとなっています。

ミヤコ・ホテルの壁に描かれた大谷投手の壁画
ミヤコ・ホテルの壁に描かれた大谷投手の壁画
リトルトーキョーの新たなシンボルとなったミヤコ・ホテルの壁に描かれた大谷投手の壁画
リトルトーキョーの新たなシンボルとなったミヤコ・ホテルの壁に描かれた大谷投手の壁画

現在は多くの観光客でにぎわうリトルトーキョーですが、その歴史や存亡の危機に直面していたことはあまり知られていません。全米最大かつ最も古い歴史のある日系コミュニティー「リトルトーキョー」の起源は、明治時代にまでさかのぼります。1880年代に日本からの移民が日本食レストランをオープンしたのが始まりだといわれており、1900年代初めには7000人ほどの日本人がリトルトーキョーで暮らし、コミュニティーを築いていたとされています。当時のリトルトーキョーには、飲食店から家族経営の小売店、旅館、寺院、新聞社、私塾などがあり、1940年には二世や三世も合わせて3万人以上に人口が増え、日系移民の街として栄えていたそうです。

リトルトーキョーは日系人だけでなく、今ではさまざまな人種の人が暮らしています
リトルトーキョーは日系人だけでなく、今ではさまざまな人種の人が暮らしています

しかし、日露戦争で日本が勝利した1924年頃から状況が一変。日本人排斥の流れが活発となり、政府が排日移民法を制定し、日本からの移民が禁止されます。そして、第2次世界大戦によって日系人社会は窮地に追い込まれ、1942年に当時のルーズベルト大統領によって出された大統領令によってリトルトーキョーを含む西海岸全域に住む日系アメリカ人が強制収容されます。リトルトーキョーからバスに乗せられ、収容所に連れていかれる様子を撮影した写真は全米日系人博物館にも展示されています。それにより、リトルトーキョーから日系人は消え、ゴーストタウンと化したそうです。

LAから北に360キロほどの砂漠の真ん中にあるマンザナ強制収容所は、現在は国定史跡として整備・保存されて一般公開されています。強制収容された経験を持つ日系人の中には、SFドラマ「スタートレック」などで知られる日系人俳優のジョージ・タケイらもいます。終戦に伴い、強制連行された人々が再びリトルトーキョーとその周辺地域に戻ってきたのは1945年のことでした。

二宮金次郎の像もあります
二宮金次郎の像もあります

70年代に入ると再開発が進められ、多くの日本企業が進出し、ニューオータニ・ホテルが開業するなど再び日本人街として栄えます。80年代から90年代初頭にかけて日本人観光客でにぎわうも、バブル崩壊によって激減。日本人経営の店は減り、代わりに中国や韓国系の人口が増えていきます。当時、現地に暮らす日本人にとって「リトルトーキョーは危ない街」というイメ-ジが強く、学生だった筆者含めて近寄らない方が良い場所という認識でした。しかし、1995年にドジャースに野茂英雄投手(当時)が入団したことで再びリトルトーキョーが特需に沸き、歴史地区に指定されます。それから30年経った今、大谷投手のドジャース入団によって活性化され、再び多くの日本人でにぎわう街へと変貌を遂げています。

リトルトーキョーの一角には戦前からある建物が今も残っています
リトルトーキョーの一角には戦前からある建物が今も残っています

その間も、リトルトーキョーは非日本人の街として進化を続けてきました。21世紀に入ると再開発で多くのアパートやマンションが建設され、地下鉄の開通などもあり、人口が増加。すしやラーメンなどの日本食ブームもあり、多くのアメリカ人が観光に訪れるようになり、いつしかオタクの街へと変わっていきます。今ではアニメグッズのショップや紀伊国屋書店はオタクでにぎわい、週末にはコスプレした若者が街を歩くなど、新たな日本文化の発祥の地となっています。

(米ロサンゼルスから千歳香奈子。ニッカンスポーツ・コム「ラララ西海岸」、写真も)