さる1月17日、6000人を超える犠牲者を出した阪神淡路大震災から25年を迎えた。現地で暮らし、取材にあたった私も当時のことは、まるで昨日のことのように覚えているが、鉄路も大きな被害を受け、人々の生活や復興に大きな影響を与えた。25年前を振り返りながら、各駅を訪ねた。

〈1〉明け方の住吉駅からスタートする
〈1〉明け方の住吉駅からスタートする

スタートは早朝で薄暗いJRの住吉駅から(写真〈1〉)。徒歩で阪急の御影駅を目指す。約10分。三宮~大阪(梅田)という阪神間の大動脈は、必ずどこかで、長蛇の列を待って乗り込んでも大渋滞の代行バスや長距離の徒歩を強いられてきたが、大阪から住吉まで電車が入り、直後に西側から御影まで阪急が復旧したことで負担が大幅に軽減された。三宮までは行かず六甲をはさんで王子公園までのたった2区間だったが、新聞を広げる時間もないような(当時はスマホなんてものはない)、わずか数分の2駅がこれほどありがたいとは思わなかった。2月13日のことだ(写真〈2〉)。

〈2〉住吉駅との徒歩接続が可能となった阪急御影駅
〈2〉住吉駅との徒歩接続が可能となった阪急御影駅

王子公園まで来れば三宮は目の前だし、間もなく王子公園近くのJR灘や阪神岩屋が再開した。全線復旧は6月となった阪急だが、この後も岡本~芦屋川~夙川の2区間だけの復旧など、飛び地のように部分開通を行い、少しでも旅客の利便性をと考えていたことが分かる。

ただ毎日のように歩いていた住吉~御影(阪急御影に近いのは阪神御影より、むしろ住吉である)だが、久しぶりに歩いてみると駅に最短でたどり着くことができず、やや遠回りしてしまった。25年の歳月を感じてしまう。駅舎もおしゃれに変化している。

〈3〉震災直後に最も神戸に近い駅となった西宮北口駅
〈3〉震災直後に最も神戸に近い駅となった西宮北口駅

次は西宮北口を目指した。阪急の拠点駅として有名。話は前後してしまうが、震災直後に最も訪れた駅である(写真〈3〉)。梅田~西宮北口は震災の翌日に運転を再開した。大阪からだと最も西の駅が西宮北口だったのだ。三宮~西宮北口をとにかく歩いた。約16キロ、3時間半から4時間の道程だったが、道路は大渋滞でタクシーなど使いようがない。2日前まで特急で15分だった距離が4時間。徒歩の列はかなたまで続いていて、皆が悲しみをこらえながら淡々と歩いている姿が、かえって涙を誘った。冬の陽は落ちるのが早く、昼すぎに歩き始めると到着時には暗闇に包まれる。駅の明かりが見えると安堵(あんど)に包まれた。計3往復したはずだ。

駅よりも周辺が大きく変わった。副名として「阪急西宮ガーデンズ前」と名付けられている(写真〈4〉)。

〈4〉西宮北口には阪急西宮ガーデンズ前の副名がついている
〈4〉西宮北口には阪急西宮ガーデンズ前の副名がついている

かつての西宮スタジアム(球場)の地は大型ショッピングセンターとなって週末は人であふれる。

阪急を乗り継いで伊丹へと向かう。伊丹線は、わずか3キロの支線だが、終点の伊丹駅が崩壊。1駅手前の新伊丹駅(写真〈5〉)との折り返しで運転され、伊丹駅の新ビルが完成するのに3年以上の歳月を要した(写真〈6〉〈7〉)。

〈5〉震災後しばらく伊丹線の終点だった新伊丹駅
〈5〉震災後しばらく伊丹線の終点だった新伊丹駅
〈6〉現在の伊丹駅のホーム
〈6〉現在の伊丹駅のホーム
〈7〉新しい伊丹駅は5階建てのビルとなった
〈7〉新しい伊丹駅は5階建てのビルとなった

大正時代の開通時は宝塚への延伸が前提だった伊丹線だが、新ビルの構造は完全にそれを否定するもので、その後、阪急も工事の特許を失効させている。

再び西宮北口に戻り、今津線を経て阪神本線で神戸に向かう。青木駅(写真〈8〉)。「おおぎ」と読む。震災から9日後に阪神が青木まで復旧したことで西宮北口に変わって最も西の駅となった。大勢の人でにぎわう駅に変貌したが、約2週間後に特急停車駅の御影まで復旧区間が延伸されたため、またたく間に静かな駅に戻った。駅は大きく変わっている。10年以上続いた高架工事が完成。昨年11月から完全な高架駅となった。

〈8〉昨秋、完全に高架駅となった青木駅
〈8〉昨秋、完全に高架駅となった青木駅

最後はJRの六甲道駅(写真〈9〉)。高架ホームが完全に崩壊。当初、復旧に何年もかかるとみられていたが、持ち上げることで奇跡の復活を果たし、阪神、阪急に2カ月以上も先駆けてJRが4月1日に阪神間をつなげたことはNHKのドキュメントで有名になった。その六甲道駅の南口に銀色の碑がある。「全線開通モニュメント」。決して大きくはなく、もしかすると駅利用者も気づかないかもしれない。「復興への誓い」のプレートがある(写真〈10〉〈11〉)。

〈9〉奇跡の復旧として有名になった六甲道駅
〈9〉奇跡の復旧として有名になった六甲道駅
〈10〉六甲道駅の全線開通モニュメント
〈10〉六甲道駅の全線開通モニュメント
〈11〉モニュメントとともに復興への誓いのプレートが設置されている
〈11〉モニュメントとともに復興への誓いのプレートが設置されている

私が物心ついた時は戦後20年ちょっとだった。それを思うと25年は長い月日で風景の変化も当然かもしれない。駅だけを見てもそれは分かる。ただ各地に残るモニュメントを見るたびにいろいろな当時の体験は、忘れてはならないことだといつも重ねて思う。【高木茂久】