愛媛県の山中を行く内子線は、廃線危機にあった盲腸線が、予讃線の短絡線に組み込まれることによって一転、幹線としての役割を担うことになった奇跡の復活路線だが、短絡線としての機能を増すため線路の付け替えや一部区間の廃線も行われている。では1920年の開業から100年の歴史を刻む内子線の以前の姿はどうだったのか? 今も残る痕跡を求め歩いた。(訪問は9月22日。痕跡のない部分については推測もあるため間違いがあれば、ご容赦ください)
松山から南下してきた向井原駅で、もともとの予讃線が海へと向かう(海線)のに対し、予讃線新線(山線)は山中に向かう。戦前からの海線とは違い、86年完成の新線は高速車両が走る高規格。トンネル経由で内子駅へ到達し、内子線を経て伊予大洲駅へと向かうのだが、取り込まれたのは、あくまでも路線だけでレールではない。
スピードが求められる短絡線である。現在の内子線より東側を回り込むように走っていた旧線をトンネルで真っすぐ貫いて付け替え。また五郎駅で分岐していた内子線は伊予大洲からの接続がスイッチバックの形になっていたため、五郎~新谷は廃線とし、新谷~伊予大洲をダイレクトで結んだ(※)。新谷~伊予大洲間の1駅分だけが予讃線となっているのは、こんな経緯から。つまり内子線で原形をとどめているのは、ごく一部しかない。
その廃線部分と付け替え部分を見ようとやってきた。私だけでは心細いのでツイッターのフォロワーさんである地元のスピカさんに同行と案内をお願いした。伊予大洲(列車)新谷(徒歩)五郎(列車)伊予大洲(列車)五十崎(徒歩)内子という道程。内子をゴールとしたのは特急停車駅で何時に着いても確実に1時間以内で特急が来るからだ。予讃線普通は本数が多いとはいえないが何とかうまく使えそうだ。
新谷の街並みを歩き始めると松山自動車道の大洲料金所。その隣を列車が通る珍しい光景を味わえる(写真1)。境界杭らしいものを見たりしながら線路沿いの公園へ到着(写真2)。
このあたりから「いかにも」の光景。農地の中の線路跡と思える道路を進んでいくと下水処理場の手前で道は終わる(写真3、4)。おそらくこの先が予讃線との合流地点だろうか。先に行けないので県道に出ると肱川沿い。間もなく五郎駅だ(写真5)。
今も内子線分岐時代のホームが残る(写真6、7)。当時は駅員さんがいたが、今はホームと待合所だけの無人駅である。北条鉄道の田原駅と同じく、70年代には野口五郎さんのファンがドッと押しかけたという。瀬戸大橋もなく四国内はすべて非電化の時代、東京や大阪からどのぐらいの時間がかかったのだろう、などと考えていると「伊予灘ものがたり」がやってきた。駅にやってくるタヌキに駅員さんがエサを与えたところ、集まってくるようになり、タヌキ駅長が誕生した駅でもある(写真8~10)。
伊予大洲から再び内子線に乗り五十崎で下車(写真11)。トンネルを掘ったため旧線時代から位置が大幅に移動した駅である。ホームの一部がトンネルの中にある。駅を降りるとすぐ国道56号があり、少し歩くと今回のハイライトだ。目の前には驚くべき光景が広がる。34年前の廃線とは思えない美しい状態でレールが残る。ふさいだ形で廃線の終点となるトンネルは旧線唯一のトンネルだったという(写真12、13)。
30年以上前に見た薬師丸ひろ子さんの映画「ダウンタウンヒーローズ」。当時は全く知らなかったが、廃線間もないこの旧線に蒸気機関車を持ち込んで撮影したという。今でも列車の音がしそうだ。古い標識かな? と思ったら線路付近を通る人に注意を促す案内のようだ。当時は1日7往復だったのか(写真14)。
旧五十崎駅の場所は松山道と56号の交差するあたりだと推測される。「五十崎口」バス停が代替なのだろうか(写真15、16)。内子駅が西に移動した分、現五十崎駅より内子の方が近い。現内子駅を左に見ながら数分歩くと突き当たりが旧内子駅。内子座など内子の町にはこちらが近い。駅跡は自治センターとなっていて、裏手に跡地を示す小さな石碑と説明板がある(写真17、18、19)。控えめなのは駅が大いに「出世」したからだろう。盲腸線の折り返し駅から、1時間に1本の特急が停車するようになり、松山まで約30分で到達できるようになったのだから。
当時の駅名標は現在の内子駅前に、かつて内子線を走ったC12とともに保存されている(写真20)。こちらがゴール。伊予大洲からスタートして約5時間。ほぼ歩き通しだったが、思い出の掘り起こしと発見に富んだ旅だった。同行していただいたスピカさんには、あらためてお礼申し上げます。【高木茂久】
※内子線はもともと伊予大洲と新谷をダイレクトで結んでいたが、昭和初期に国鉄となった際、五郎経由に改められた。元に戻ったともいえる。