昭和、平成、令和。3つの時代で五輪メダルを狙っているアスリートがいる。アーチェリーの山本博(日体大教)。21歳で初出場した84年(昭59)ロサンゼルス大会で銅メダルを獲得。その20年後の04年(平16)アテネ大会では41歳で銀メダルを手にして“中年の星”と注目された。あれから15年。3大会連続で五輪出場は逃したが、56歳になった現在も国内の第一線で活躍中。“令和で悲願の金メダル”の夢をあきらめていない。【取材・構成 首藤正徳】


的を狙う山本博(撮影・小沢裕)
的を狙う山本博(撮影・小沢裕)

50代も半ばを過ぎると、老いは加速して身に忍び寄ってくる。山本も例外ではない。奥歯5本はインプラントで、右目に老眼用コンタクトを入れて的を見る。4月下旬、両腕に強いしびれを感じて病院で検査を受けた。診断は「胸郭出口症候群」。首から肩にかけての筋肉と骨が血管を圧迫して、血流が悪くなっていた。

20年東京大会の選考会は11月に始まる。それでも山本の言葉にさほど深刻な響きはない。「手術は最終手段で、胸郭を開くリハビリを続けて、血流が良くなれば治ると医師に言われたので安心しました。リハビリで治るならもうけもの。頑張って5月末の大会でいい点数を出したい」。いたって前向きなのである。

16年4月には筋断裂した右肩の腱板(けんばん)をつなぐ手術を受けた。回避する選択肢もあったが、東京大会で再び高みを目指すため迷わず手術を選んだ。本来の感覚を取り戻すのに2年かかった。ようやく光が見え始めた直後の不運。それでも先を憂うことはない。宣言通り、5月11日の茨城県の公式戦で早くも675点のシーズンベストをマークしてみせた。「令和で金。楽しみです」。

日体大3年で初出場したロサンゼルス大会で銅メダルを手にした。才気あふれる若者の無欲が、運を引き寄せた。「4年後のソウル五輪でメダルを取る計画でした。東側諸国がボイコットしたことが優位に働いた」と当時を冷静に振り返る。一方、メダル候補と期待された90年代は低迷した。00年シドニー大会は代表も逃した。「メダルを取るという欲が強すぎた。自分は強いという傲慢(ごうまん)があった。人にも厳しくて、どんどん自分を追い込んでしまった」。


2004年アテネ五輪で銀メダルを獲得
2004年アテネ五輪で銀メダルを獲得

04年アテネ大会で20年ぶりのメダルを手にする。銀色だった。練習量を増やし、02年から日本記録を連発した。自信もあった。一方で「五輪で個人メダルを取ることの難しさは熟知していたので、若い選手たちと一緒に団体でメダルを取ろうと気持ちをシフトした。それが個人戦のリラックスにつながった。力みや傲慢さがなくなり、勝負強い自分がいた」。数え切れない山と谷を乗り越えて、たどり着いた境地だった。

41歳での快挙に“中年の星”と脚光を浴びた。「次は20年かけて金メダルを目指します」というコメントで笑わせた。しかし、本人は今もそのコメントを糧にしている。「言った直後よりも今は期待感は薄くなっている。でも、あの時“10年”と言わなくて本当によかった。“20年”だと24年パリ五輪まで残っているから」と、どこか楽しんでいるような口調で言う。


弓に矢を固定するためのノッキングポイントを作る
弓に矢を固定するためのノッキングポイントを作る

08年北京大会から3大会連続で五輪出場を逃したが、国内では第一線で活躍を続けている。昨年も代表復帰は逃したものの、ナショナルチーム選考会に出場した。競技以外にも継続していることがある。「夕食は家で家内と一緒にします。外食をすると帰宅も寝る時間も遅くなるから。家に戻ると携帯電話も触りません。新橋のサラリーマンみたいに一杯飲んで帰るなんてやったことがない」。

12年ロンドン大会銀メダリストの古川高晴を始め、日本選手のレベルが上がり、層も厚くなった。しかし、山本の視界に彼らはいない。「今の自分は相手に闘争心を向ける戦い方じゃない。この年齢と体でアーチェリーをどこまで究められるか。もし記録が伸びたらすごいじゃないですか。自分の中の未開発な部分を開発すれば人生の可能性も広がる。それを人々に伝えられれば、社会的な意義もあると思う」。頭にあるのは深遠なテーマだけである。


アーチェリー部の生徒たちといっしょに
アーチェリー部の生徒たちといっしょに

現在は日体大教授として授業をこなし、同大学の強化支援体制を統括するアスレティックデパートメント長を務め、東京都体育協会の会長の要職にもある。競技だけに集中できる環境ではないが「年を重ねて、競技を遊びの延長と思って、心底楽しめるようになった。だから続けられるし、頑張れる」。今やアーチェリーは生きる糧ではなく、生きることそのものになった。

五輪のメダルは、昭和と平成の天皇陛下と面会する機会を与えてくれた。「もう1度、新しい天皇陛下にお会いできるような技を磨き、それをお伝えできるような人になりたい。東京は57歳、パリは61歳。まだまだ辞めたらもったいない。去年もナショナルチーム選考会に出場できるスコアを打ってますから」。柔和な山本の表情の奥に、勝負師の反骨精神がチラリと見えた。



◆山本博(やまもと・ひろし)1962年(昭37)10月31日、横浜市生まれ。保土ケ谷中でアーチェリーを始め、横浜高でインターハイ3連覇。17歳で挑戦した80年モスクワ五輪は国内予選4位で補欠。日体大3年の84年、ロサンゼルス五輪の男子個人で銅メダル獲得。その後、88年ソウル、92年バルセロナ、96年アトランタとメダルを逃したが、04年アテネ五輪で銀メダルを獲得した。06年には日本人初の世界ランク1位に。大宮開成高の保健体育教諭をへて現在は日体大教授。同大アスレティックデパートメント長。15年に弘前大大学院を卒業し、医学博士号を取得した。東京都体育協会会長も務める。


■アーチェリー代表 東京五輪選考方法

★1次選考会(19年11月)

出場選手 男女各16人出場(19年世界選手権メダル獲得選手除く)。出場資格は<1>同年世界選手権出場選手<2>同年ナショナルチーム海外派遣大会メダル獲得選手<3>同年の公認試合1試合と全日本選手権予選記録の2試合合計得点上位者

選考 男女上位8人を20年ナショナルチーム兼20年東京五輪候補選手とする。

★2次選考会(20年3月)

出場選手 20年ナショナルチーム兼東京五輪候補選手の男女各8人。

選考 男女上位5人を東京五輪最終選考会出場者とする

★最終選考会(20年4月)

出場選手 東京五輪2次選考会男女上位各5人および19年世界選手権メダル獲得選手

選考 男女上位3人を東京五輪日本代表内定者とする


◆五輪の年長出場 日本では12年ロンドン大会に馬術で出場した法華津寛の71歳4カ月が最年長。2番目は、同じ馬術で88年ソウル大会に出場した井上喜久子の63歳9カ月。メダリストでは、84年ロサンゼルス大会の射撃で金メダルを獲得した蒲池猛夫の48歳4カ月が最年長。世界では1920年アントワープ大会に射撃で出場したオスカー・スバーン(スウェーデン)の72歳10カ月で、銀メダルも獲得している。スバーンは64歳で出場した12年ストックホルム大会で金メダルを獲得しており、これが金メダリストの最年長記録。