東京パラリンピック開幕まで24日であと半年になった。問題山積で開催へ逆風は強いが、パラのレジェンドたちは今、何を思うのか。コロナ禍の中、どんな1年を過ごしてきたのか。卓球の別所キミエ(73=ドマーニ卓球ク)は感染予防に留意しながら3年前のアクシデントによる体調不良を乗り越えるべく、5大会連続出場へ準備を整えている。馬術の宮路満英(63=セールスフォース・ドットコム)、陸上砲丸投げの大井利江(72=北海道・東北パラ陸協)は開催を信じ、最大の理解者で協力者の夫人とともに闘ってきた。

卓球 別所キミエ(73=ドマーニ卓球ク)

■髪飾り&ネイル

“マダムバタフライ”は元気に舞っている。金色に染めた髪にあしらうたくさんのチョウの髪飾りと派手なネイルで世界的に知られる別所は、インタビューにテンポよく言葉を並べた。「もう準備はできてますよ。ていうか、みんな条件は一緒。試合をすれば感覚も戻ってくると思うしね。基本に返ってフォームを見直してきたし。ライバル対策もしてますよ」

車いす5クラスの世界ランキング8位で6月に予定される世界予選(スロベニア)に挑む。優勝すれば04年アテネから5大会連続出場が実現する。実戦は19年10月のフィンランド遠征以来だが、コロナ禍による空白期間に自らのプレーを見直し、基本に忠実なスイングを取り戻した。ロビングを相手コートのネット際ギリギリに落とし、左右や自陣にバウンドさせる魔球“バタフライショット”の精度も上がっている。

別所キミエのトレードマーク、チョウの髪飾り
別所キミエのトレードマーク、チョウの髪飾り

■感染予防も徹底

「もし入院となっても、誰にも迷惑をかけたくないからね。人と会うこともやめましたよ」

年齢的にも感染すれば重症化のリスクは高い。自己管理は徹底してきた。兵庫県明石市で独り暮らしだが、基本的な予防策に加え、昨年3月から毎日の詳細な行動記録をノートに記してきた。外出から戻れば衣類をすべて洗濯し、シャワーを浴びる。万が一のため、玄関には3日分の着替えを詰めたボストンバッグも常備。近隣の体育館での練習では卓球台1台だけの個室を用意した。正月も2人の息子家族、かわいい3人の孫とは会わなかった。

■2度の事故も…

体調は十分ではない。18年にアクシデントが続いた。8月に車いすで買い物途中に車にはねられた。9月にはその治療中のトラブルで右膝を骨折。10月には車を運転中、トラックに追突された。直後の世界選手権を欠場して1度ランキングから名前が消えたことで、上位者に与えられる東京キップを逃した。今でも右半身を中心に痛みやしびれが残る。利き腕の右手の握力は30キロから10キロに落ちたまま。19年秋にドイツ製の軽量車いすを購入し、ラケットとラバーも軽くして対応してきた。

「相手は年寄りに負けたくないと思うだろうけど、私には人生経験がある。これまで乗り越えてきた苦しいことが球に乗り移って魔球になってくれますよ。この年になれば1年も2年も関係なし。逆に去年だったら新しい車いすの調整が間に合わなかったわ」

夫と死別した2年後、42歳の時に骨盤の一部に細胞腫が見つかり、2度の大手術の末に両脚に障がいが残った。45歳で卓球と出会い、50歳をすぎて代表入り。世界を舞台に20年以上戦い続けてきた。68歳だったリオでは日本選手団最高齢記録を更新した。ただ、パラ、世界選手権を通じて表彰台はない。

■「元気」届けたい

「医療従事者や生活に困っている方々にお金を使った方がいいとも思う。コロナが収まった何年かあとに東京でということでもいいかもしれない。でも、アスリートとして、戦う姿でみなさんに元気になってもらいたい思いもあるんです」

東京大会へ悲観的な見方も多くなってきたことは理解している。ただ、前しか見ない73歳は今、開催を信じて出場権獲得に集中する。「最年長の別所さんじゃなく、メダリストの別所さんと呼ばれたいなぁ」。最後にフーッと息を吐きながら今夏にかける思いを口にした。【小堀泰男】

▼別所の髪飾りに新しい仲間が増えた。それはチョウではなくトンボ。「世界予選にも持っていきますよ。トンボはどこにとまるにしてもテッペンでしょ。それに、前へ前へと飛んでいくからね」。08年北京パラ以降に増え始めたチョウは現在約300個で、トンボも10個ほど用意している。世界予選では40個ほどのチョウにトンボを1つ加えて戦うという。「東京パラではとっておきのトンボをお披露目します」。出場を確信しているように笑った。

◆別所(べっしょ)キミエ 1947年(昭22)12月8日、広島県安芸太田町生まれ。小中学校時代に陸上、バレーボールなどに取り組み、県立加計高卒業後、大阪府の敷島製パンに就職。20歳で結婚し、兵庫県明石市に転居した。87年、39歳の時に夫が病気で急逝。89年に仙骨巨細胞腫にかかり、2度の大手術を受けたが両脚に障がいが残って車いす生活に。パラリンピックは04年アテネ6位、08年北京、12年ロンドン、16年リオデジャネイロはいずれも5位。06年世界選手権4位。アジア地域の大会では銀、銅メダルを獲得している。右シェークハンド。

◆卓球メモ 障がいの程度によって車いす1~5、立位6~10、知的障がい11の11クラスに分かれる。ルールは健常者と同じで、卓球台やラケットも同様。東京では男子シングルス11種目と団体6種目、女子シングルス10種目(車いす1、2を統合)と団体4種目が実施される。シングルス1種目に1カ国・地域から3選手まで出場可能。すでに世界5大陸選手権の個人戦優勝者と昨年3月末時点の世界ランク上位者の条件で、日本からは男子立位7の八木克勝(30=モルガン・スタンレー・グループ)、同9の岩渕幸洋(26=協和キリン)、知的11の男子で浅野俊(19=PIA)竹守彪(27=TOMAX)、女子で古川佳奈美(23=博多卓球ク)の出場が内定している。世界予選には、日本から男女13選手が出場予定。

陸上砲丸投げ 大井利江(72=北海道・東北パラ陸協)

■「5連続」狙える

岩手県沿岸部最北に位置する洋野町の春は遠い。大井は冷たい風の中を自宅近くの体育館に通う。

「体温調節ができないんで、寒さはこたえるよ」

冬場は室内で車いすで走り込み、バスケットやテニスのボールを使ってフォームをチェックする。砲丸投げF53(車いす)の東京パラランキングは6メートル89で9位。5大会連続出場を狙える位置につけている。

17年6月、日本パラ陸上選手権・砲丸投げで優勝した大井利江
17年6月、日本パラ陸上選手権・砲丸投げで優勝した大井利江

「東京、中止だけは勘弁してほしいな」

ぼくとつとした口調で続ける。

「一緒に東京に出たい。代表になりたいんだ」

その傍らに須恵子夫人(79)が寄り添う。2人は一緒に戦ってきた。大井は39歳の時、マグロの遠洋漁業中の事故で首と腕以外の自由を失った。入退院を5年間繰り返し、競泳を経て49歳から円盤投げへ。練習で投げる円盤を黙々と拾い、筋トレを補助し、国内外の遠征に同行しての介助が須恵子さんの役割になった。

大井利江のトレーニングをサポートする妻の須恵子さん
大井利江のトレーニングをサポートする妻の須恵子さん

■海で鍛えた剛腕

海で鍛えた右の剛腕で04年アテネで銀、08年北京で銅メダル。12年ロンドンで10位に終わった後、F53の円盤が種目から除外された。大井は肘が曲がらず、肩より上に上がらない利き腕を見切り、左腕で砲丸を投げ始める。翌年には東京大会招致が決まった。16年のリオでも代表になった。

「家内と東京までって約束してるんだ。いつもオレの体を心配してくれてね。頭が上がらない」

須恵子さんも近年は年齢もあって両膝が痛み、砲丸を拾えなくなった。今は地元の仲間のサポートを受けるだけに、2人の「東京を集大成に」という思いは強い。

大井が出場権を手にするためには、3月の日本選手権(東京)で7メートル20を目標にランキング6位以内に浮上しなければならない。自己ベストは日本記録の6メートル92だが、コロナ禍の中で1年間、コツコツ積み上げた練習で「7メートル超えの感覚はある」。鉄人がラストチャンスにかける。

▼大井は19年11月の世界選手権で惜しくも5位に終わった。絶好調で臨んだが4投目の6メートル60以外はすべてファウル。「3投目は7メートルを超えていた。あれがファウルじゃなかったら記録はすごく伸びていた」。4位以内なら東京内定だっただけに悔やまれる。昨年は感染予防を心掛けながら1日50投ほどの練習を重ねたが、体を支える右肘を痛めて9月の日本選手権を欠場。「50%の状態で出た」という11月の関東パラでは6メートル44にとどまったが、現在の体調は万全という。

◆大井利江(おおい・としえ)1948年(昭23)8月29日、岩手県洋野町(旧種市町)の漁師の家に生まれる。定時制高校では1年生から野球部のレギュラーで活躍し、県大会優勝経験もある。父親がケガをしたことで2年生で中退し、マグロの遠洋漁業に。39歳の時、北太平洋で操業中に漁具が頭に落下する事故で頸椎(けいつい)を骨折、首と腕以外の機能を失った。競泳を経て49歳から円盤投げに取り組み、06年世界選手権優勝。パラリンピックは04年アテネで銀、08年北京で銅メダル。12年ロンドン10位後に砲丸投げに転向し、16年リオは7位。

◆陸上(トラック&フィールド)メモ 東京大会には1カ国・地域から1種目に最多3人まで出場できる。日本では19年11月の世界選手権(ドバイ)各種目4位以内の条件で男女13人が内定。さらに世界パラ陸連(WPA)東京パラランキング(19年4月1日~21年4月1日)で6位以内に入れば内定となる。また、WPA公認大会(18年10月1日~21年6月)でWPA設定のハイパフォーマンス標準記録を突破し、8位入賞の可能性のある選手に対して出場推薦順位を決定する。

馬術 宮路満英(63=セールスフォース・ドットコム)

■みやじぃ慕われ

優しい笑顔に温厚な人柄。宮路は馬術関係者から「みやじぃ」と呼ばれ、慕われている。東京大会で日本の出場枠は4。出場条件を満たした強化指定選手5人の中から選出される方向で、日本からただ1人出場したリオに続く代表入りが有力視されている。「コロナが収まって、大会がちゃんとできるようになったら、自分自身もよくなるように頑張ります」。笑顔の63歳に気負いはない。

20年11月、全日本パラ馬術大会の個人規定演技に出場した宮路満英
20年11月、全日本パラ馬術大会の個人規定演技に出場した宮路満英

元JRA調教助手。05年7月、47歳の時に厩舎内で脳卒中で倒れた。3週間後に意識を取り戻すと右半身がまひし、高次脳機能障がいを負った。「何かしないといかん」と翌年のホノルルマラソンを13時間かけて完走。その後のリハビリで再び馬と触れ合うことを決めた。

支えるのは高校時代に知り合った同い年の裕美子夫人(63)だ。日常生活の介助はもちろん、国内外の遠征にも同行。宮路のJRA時代も馬に興味はなかったが、競技を理解するために自ら乗馬を始めた。15年からは競技中に馬場横から声で演技コースを伝えるコマンダーとしてともに戦う。

裕美子夫人と会見に臨む宮路満英
裕美子夫人と会見に臨む宮路満英

■リオ11位の雪辱

コロナ禍で満足な準備は望むべくもない。現在は滋賀県内の自宅から裕美子さんの運転で月に2度、愛馬がいる山梨県のクラブに通う。それ以外は感染予防のため、人との接触を避けて自宅で体幹強化やストレッチのメニューをこなす。オランダにも東京で乗る予定の愛馬2頭がいるが、昨年3月以降は現地へ渡ることもできない。「今は自分たちがやれることをやるだけ。どんな練習も無駄にならない」と宮路。「病気は悲しかったけど、私は主人のおかげで世界が広がった。ありがたいと思っている」と裕美子さん。最下位の11位に終わったリオの悔しさは東京で晴らす。「メダルを取って、名を残したい」。2人は声を合わせた。

▼宮路は昨年11月の全日本大会(東京・馬事公苑)に国内の愛馬オロバス(16歳・せん)と出場した。個人戦の規定で連勝も、最終日の自由はオロバスが興奮気味で演技が乱れ、最下位の4位に終わり「僕が彼に負けてしまった。僕がしっかりしなければいけなかった」。16年リオでは愛馬の故障で違う馬に乗り替えて出場し、最下位の11位。不運に泣いたが「僕が馬の能力を引き出せなかったのが悪い」。愛馬を「彼」と呼び、結果が出なくても馬をかばい続けるところにも宮路の優しさが表れている。

◆宮路満英(みやじ・みつひで)1957年(昭32)10月29日、鹿児島県出水市生まれ。大阪市立生野工高時代に北海道を旅行し、馬に興味を持つ。卒業後は職を転々としたが、北海道日高、門別の牧場で2年間の修業を積み80年、22歳で栗東トレセンへ。宇田、森厩舎で調教助手を務め、98年に仏G1モーリス・ド・ゲスト賞を制した名牝シーキングザパールにも携わる。05年7月に脳卒中で倒れ、07年に退職。前回16年リオでは日本ただ1人の馬術代表で11位。セールスフォース・ドットコム所属。クラスは5つのうち2番目に重い障害2。

◆馬術メモ 肢体不自由、視覚障がいの選手によって男女混合の馬場馬術として行われ、演技の正確性と芸術性を争う。パラリンピックでは個人戦の規定(チャンピオンシップテスト)と自由(フリースタイルテスト)に加え、団体戦も実施。選手は障がいの程度によって5つのクラスに分けられており、数字が小さい方が障害が重い。個人戦はクラスごとに順位を決定。