「辞めたい」。転換点は、その言葉だったのかもしれない。
パリオリンピック(五輪)バドミントン女子シングルス代表の大堀彩(27=トナミ運輸)は、福島・富岡高時代からコーチを務める父・均さん(56)と二人三脚で歩んできた。サウスポーからの角度あるショットを武器に、18年には主要国際大会全てに派遣されるA代表に選出。ただ安定した成績を残せず、21年にはB代表降格を経験した。
一時は引退も頭によぎったが、そこから復活を遂げ、27歳で初の五輪切符をつかんだ。その道のりの裏には、親子関係の変化があった。
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「辞めたい」。大堀がそうもらしたのは、21年春のことだった。前年12月の全日本総合選手権で2回戦敗退となり、世界ランク19位ながら異例のB代表降格。日本勢4番手につけていたが、主要国際大会への派遣がピタリとなくなった。
「やっていても楽しくない」。失意の中でチームスタッフへ伝えたのは、ラケットを置く決断。止められるのは承知の上だった。
ただ、均さんの反応は違った。「そんなに苦しかったら、辞めてもいいよ」。肯定してくれたのは、1人だけだった。
バドミントンと出合ったのは3歳の頃だった。記憶にあるのは、福島県内で教師をしていた均さんに連れられて学校へ行き、お兄さんやお姉さんたちに囲まれてシャトルで遊んだこと。6歳で競技を始めるきっかけになった。「(父は)昔から指導者のイメージがあって、家でもバドミントン以外の話をした記憶はないです」。均さんが監督を務める富岡高に進むと、人一倍厳しい指導を受けた。
「チームメートと同じことをしても自分だけ怒られて『なんで?』と。バチバチしていた時期はありました」
高校卒業後はNTT東日本を経て、16年にトナミ運輸へ移籍。17年には均さんも同社のコーチとなり、再び一緒に歩み始めた。だが「ほっといて、という雰囲気を私からずっと出していて」。会話も必要最小限。近くにいながら、2人の間には“壁”があった。順調に成績を伸ばし、18年にはA代表入りしたが、最大の目標としていた東京五輪には届かなかった。
そして21年1月。B代表への降格が発表された。直後は練習へも足が遠のいた。「辞めてもいいよ」と言われたのは、そんな最中だった。厳しく見守ってくれていた父からの予想外の返答。どんな思いで言ったのか-。その真意を想像した。
「『辞めてもいいよ』の言葉の中には、私に頑張ってほしいという思いもあったような気がしました。だから簡単な言葉には聞こえなくて。自分でも『辞めていいのかな?』って。それまで親孝行も全くできていなかった。『やる!』というよりも『辞められないな』と思いました」
ほどなくしてコートへ戻った。すぐに辞めるのではなく、あと1年だけやり遂げると決めた。「後悔のないように」。そう思うと心が軽くなった。グレードの高い大会へ出場できなくても、必死にラケットを振った。
「この年限り」と決めていた22年。5月の日本ランキングサーキットで8年ぶりに優勝すると、直後にA代表復帰が決まった。思わぬ再昇格。戸惑いもあったが「このまま辞めてしまったら、目標が1つも達成できないまま終わってしまう」と思い直し、現役続行を決意した。
23年5月からは、約1年に及ぶパリ五輪選考レースが始まった。かつては均さんの指導に耳を傾けているだけだったが、自分の考えを正直に伝えるようにした。「違うと思うのであれば『違うよ』と言ってもらって大丈夫。一緒に頑張りたい」。父に頼りきらず、自分でプレーを組み立てるようになった。
同10月の杭州アジア大会で銅メダルをつかむと、自信も芽生えた。選考レースは20大会前後に出場する選手が多い中、25大会を転戦。着実にポイントを重ね、当初は「全く想像していなかった」という五輪切符を手にした。
代表入りを決めると、均さんにささやかれた。「諦めずによく頑張ったな」。以前は褒められてもそれほどうれしくなかったが、この時は「やっとたどり着いた」と素直に喜べた。“引退宣言”から3年。親子で五輪の扉を開いた。
「まだ小さな親孝行。ここからが大切なので、できる限りいい親孝行ができればと思います」
恩返しの続きは、パリの舞台で-。【藤塚大輔】
◆大堀彩(おおほり・あや) 1996年(平8)10月2日、福島・会津若松市出身。ともに実業団選手だった父均さん、母麻紀さんのもとに生まれる。富岡高2年時の13年アジアユースU19選手権で日本人初優勝。NTT東日本を経て、16年からトナミ運輸。全日本総合選手権で準優勝3度。身長169センチ。血液型A。



