日本卓球界初の個人メダリストが誕生した。男子のエースで世界ランキング6位の水谷隼(27=ビーコン・ラボ)が、3位決定戦で同11位のサムソノフ(ベラルーシ)に4-1で勝って、銅メダルを獲得。88年ソウル大会からの日本の悲願を成就させた。12年ロンドン大会後には1度は引退まで考えたが、再び世界の頂点に挑む心を再燃させたのは、家族の存在だった。

 水谷が真っ先にガッツポーズをした視線の先には、妻の海那(みな)さん(24)の笑顔があった。「今日負けたら一生後悔するし、死にたくなると思いました。自分の小さいころからの夢でもあり、日本の夢、家族みんなの夢でもあった。家族を悲しませたくなかったですし、勝って喜んでいる笑顔が見たかった」。五輪初の個人メダルは感謝のプレゼント。表彰台に立つと「富士山よりも高かった」。達成感も頂点だった。

 ロンドン五輪でも第4シードで臨んだが精神的には弱かった。重圧から不眠症になり、4回戦で格下に不覚をとった。以降は国際大会から1度離れることを明言。国内の全日本選手権でも決勝で丹羽に負けた。「本当は卓球からも離れていた。このまま卓球人生を終えようかなとも思った」。

 どん底の精神状態をたたき直してくれたのは妻だった。水谷の青森山田高1年時に同中卓球部で練習する彼女と交際が始まった。13年11月の結婚に備え、スウェーデンでの卓球生活をやめて帰国。苦手だった料理を克服しようと、調理師専門学校に通って努力する姿が、水谷の心を目覚めさせた。「奥さんのために世界で活躍しないと」。厳しい環境を求めてロシアリーグに所属し、邱建新コーチに再び学んだ。14年5月には長女茉莉花(まりか)ちゃん誕生。「妻と娘がいなかったら今ごろはただのダメ男だったかも」。最高の家族に背中を押され、最高の努力で実力を再構築し、最高の結果が生まれた。

 サムソノフとはロシアで何度も対戦し、分析ができていた。細かい技術を駆使する相手に冷静に対応し、鋭いドライブを繰り出して2ゲームを連取。第3ゲームを奪われ、第4ゲームでも相手がゲームポイントを迎えるピンチの連続だった。苦しい場面を耐え続け、13-12から強打を拾った返球が台の端に当たる幸運なエッジボールとなり、ゲームを取った。これで流れをつかみ、押し切った。

 団体でも打倒中国。20年には東京五輪もある。「2歳の娘にも中国に勝つ姿を見せたい」。偉業を次へのステップにする。【鎌田直秀】

 ◆水谷隼(みずたに・じゅん)1989年(平元)6月9日、静岡県磐田市生まれ。5歳から父が代表を務める豊田町スポーツ少年団で卓球を始める。青森山田中、高-明大。全日本選手権シングルスは最多タイ8度優勝。好物は妻のつくる豚しょうが焼き。趣味はプロレス観戦。172センチ、63キロ。