坂本英一が大いに語る
坂本英一が大いに語る

不定期で連載する『いま聞きたい あの人に』第3回はダッシュマンとして名があった坂本英一(58=栃木59期・A級3班)を特集する。

かつてはビッグレースの常連で、自転車トラック世界選手権にも挑んだ。かのレジェンド神山雄一郎は母校・作新学院高の後輩になり、互いに切磋琢磨(せっさたくま)した。10月に歳を重ね、11月には息子で競輪選手の坂本将太郎に初孫になる長女が生まれた。デビュー39年目の今年を駆け抜け、公私で充実するちょいわるオヤジに、これまでと今、これからを語ってもらう。その前編。

坂本英一(後)が神山雄一郎と全プロ・スプリントで対戦し勝利する(本人提供)
坂本英一(後)が神山雄一郎と全プロ・スプリントで対戦し勝利する(本人提供)

宇都宮競輪場にある選手会栃木支部を訪ねると、まずは額縁が目に飛び込んでくる。そこには日焼けした2人がピストレーサーにまたがり、互いに見合う姿がある。聞けば左側は坂本英一と、右側はG1史上最多16勝を挙げた神山雄一郎だった。

本人を直撃すると、思い出話に花が咲く。「おっ、写真を見てくれたかい。うれしいよ、ありがとう。オレと雄一郎だよ。全プロ(全日本プロ選手権自転車競技大会・90年5月・旧前橋競輪場)のスプリントで準々決勝かな。オレが勝った。優勝して、夏には雄一郎と前橋ドームの世界選に。その頃は全プロで優勝すると、世界選に出る流れでさ。しかしまあ、カーボンフレームじゃなく、ヘルメットも昔の。懐かしい。雄一郎に長距離とか持久系は勝てないけど、ダッシュじゃ負けなかったんだ。自慢だよ、はっはっはっ(笑い)」。

茶髪に口ひげ、引き締まった上半身と、血管が浮き出た両足は隆盛期と同じ。話すうちに記憶がよみがえってくる。

普段は選手会栃木支部の事務所に飾られている
普段は選手会栃木支部の事務所に飾られている

額縁は自宅から持ち込まれた。「おやじが亡くなり、母ちゃんが遺品を整理していたら額縁が。たくさんの写真とか昔の新聞とかと一緒に」。陸上自衛隊を除隊し、宇都宮市内で設備関連の工務店を営んだ父は、スポーツ好きでもあった。姉や、2学年下で同じく競輪選手になる淳とともにスポーツ選手への道を薦められた。「姉ちゃんは水泳をやっていて、オレは中学まで野球部で外野を。淳も野球部。ただ家にダンベルやバーベル、サンドバッグがあるから、それで鍛えようと。ボクサーになりたかった。ところが両眼の視力が0・1で、ド近眼じゃあ諦めたよ」。

父にある日、競輪場へ連れ出される。そこでの戦いに胸が揺さぶられた。「全プロのスクラッチで、今で言うスプリント。2人が1対1で、どっちが先にゴールするか。中野浩一さんが勝った、格好良かった。しびれたよ。こんな競技をやってみたいって! 中1のときかな」。

時は昭和50年代の半ば。プロ野球は江川卓と原辰徳を擁する読売巨人軍がリードし、宇都宮では暴走族への対策が課題だった。「中野さんのような競輪選手になると。高校は、自転車の愛好会がある作新に進もうと。ワルの仲間と会わないようになった」。考えを変えた。公道ではなく、バンクで猛スピードを出そうと挑戦を始めた。

坂本英一と神山雄一郎が作新学院高から乗り込む宇都宮競輪場
坂本英一と神山雄一郎が作新学院高から乗り込む宇都宮競輪場

作新学院高に進んだ。自転車の愛好会は、後に競輪祭新人王戦で決勝進出する福田祐治が主将を務め、同じ新入生には福田匡史らの顔があった。

「先生や、匡史の父ちゃんの福田明さんがコーチしてくれて一生懸命に練習した。授業が終われば、普通の自転車で競輪場へ。そこは3キロぐらいの距離。校則で、ピストとかロードバイクで道路は走れない。と言っても、1年生は最初はピストレーサーに乗らせてもらえない。陸トレって言って、バンクの中でうさぎ跳びとか。体に良くないようなメニューばかり。その時点で何人も辞めた。ようやくピストに乗れるとなると、バンクを何周も何周も。まずはアップがてら50周。1周500メートルだから、それだけで30キロ近く。そして次から次へいろんな練習を。きつかった、へとへとになった」。

父譲りの筋肉質の体と、負けず嫌いの性格にトレーニングがかみ合い、全身がバネのようになる。夏には大きくスキルアップした。「愛好会の先生が『お前の細い体は持久系に向いている。中長距離を専門にしよう』って。オレは冗談じゃないって思ったよ。中野浩一さんに憧れて競輪選手を目指すのに。そしたら先生が『今度の大会で3位までに入れば、望み通り短距離に専念していい』と。ピストに乗り始めてすぐ、結果を出さなくては。大変だった」。

ある日のレース。橙色7番車の坂本英一が発走を待つ
ある日のレース。橙色7番車の坂本英一が発走を待つ

スプリントでは選手2人が1対1になり、決められた距離で先にゴールした方が勝者になる。残り200メートルまではけん制や斜行してもOK。前方に出た選手は、後方の選手から動きを見極められて不利になる。残り200メートルからは全力でもがく。

必死に挑むが、未熟で駆け引きができない。「高3が引退して、すぐにあった県の大会でさ。準決勝で高2の相手にテクニックでやられた。力を出し切れずに負けた。で、3位決定戦も負けたら、中長距離が専門になっちゃう。何で準決勝は負けたか考えた。次はその戦術で戦おうと。そしたら、違う高2に勝って3位になれたんだよ」。

それから不利な前方に位置しても動じない。前方なら、前や右、左を見てと、首を傾げながら後方の相手を確認する必要がある。外柵のぎりぎりを走り、相手が自分の左側しか進めない状況を作った。後方に構えれば、「仕掛ける時に口から、どうしても『ひゅっ』って音が出る。前方がその音を聞いて驚いて、駆け出す。後方は巻き返しのチャンスを待てばいい」と、ノウハウを思い返す。

坂本英一(右)が同県栃木ガールズの青木美優と雑談する
坂本英一(右)が同県栃木ガールズの青木美優と雑談する

力任せでなくても勝負になる、スプリントの魅力に引き込まれた。筋トレにも力を注ぎ、同時に各大会の映像を取り寄せて戦術を学んだ。「ずるいやり方もあった。後方を見る振りをして、実は前だけ見て、自分の踏み出しに集中する。とかなんとか。最後は全力でもがくとして、それまでは脚力を温存したい。それが競輪にも生きた。地足がないのに、500バンクの千葉で2周近く逃げて勝てた」。

全プロ・スプリントで3度の優勝や、世界選に3度出場した礎は高1で築かれた。そして自信を高めていたある日、スーパー中学生に出会う。他の誰でもない、後のレジェンド神山雄一郎だった。(中編へと続く)【編・野島成浩】

【競輪】レジェンドとの出会い 坂本英一「お互いに自分にないものが」/敢闘門の向こう側(中編)

【競輪】戦いは続く 坂本英一「全身、合わせて30箇所は骨折しているね」/敢闘門の向こう側(後編)