駒大の馬場翔大(4年)が笑顔で走りきった。8区を1時間5分22秒の区間2位。トップでタスキを受けた昨年の5区山登りで、低体温症により大ブレーキとなった雪辱を果たす快走だった。一時は陸上競技をやめることも考えたが、母文子さん(54)ら家族の支えもあり復活。総合3位に終わり、8年ぶり7度目の優勝は逃したが、仲間を含めたファミリーへ、恩返しの学生ラストランを披露した。

 18・6キロすぎ、馬場の表情が少しだけ笑顔に変わった。沿道の大観衆。その中で声援を送る母文子さんと目が合った。薄紫に黒字で「翔大」と書かれた横断幕。昨年の5区の残り1キロ地点では、意識がなくなり、気づくこともできなかった。同じ過ちは繰り返すことは許されない。12月上旬に大八木監督から任された8区で区間2位の快走。「山あり谷ありの4年間でしたが、多くのことを学んだ箱根でした。駒大もそうですけれど、馬場~って個人名で応援していただき幸せでした」。笑顔でゴールした直後に其田主将(4年)から「ヨシヨシ」と頭をなでられた時、この1年を振り返った時の2度だけは、安堵(あんど)の涙を抑えきれなかった。

 レース終了後、馬場は岡山から駆けつけた家族を前に言い切った。「家族の支えがなかったら、僕がこの場にいることはなかったと思います」。昨年1月2日の悪夢の直後、走ることをやめるつもりだった。気持ちもどう立て直していいか分からなかった。翌日の復路で仲間が走った記憶すら、うろ覚えだ。心配で東京に残った母とキャンパス近くの二子玉川駅で会った。人の行き交う改札で「最後までタスキを持ってきたことを誇りに思うよ」。そのひと言に救われた。ただ、電車に乗れば中学生から「あの箱根の…」と指さされ、隣の車両に移るほど傷ついたこともあった。姉このみさん(28)は「あのまま実家に帰ってきていたら、駒沢に戻れなかった。笑顔でタスキももらって、笑顔で渡せた。それだけで満足です」。母も「最後なので本人も楽しめたかなと思う。その姿を見られて、私もうれしい」と感極まった。

 馬場は昨年3月の学生ハーフで自己ベストを更新し、結果でも前を向けた。8月のお盆休みに帰省すると、女手一つで育ててくれた母は元気づける意味で家族や近所の仲間を集めてバーベキューを開催。馬場にようやく笑顔が戻った。そして前日の2日夜には「最後まで絶対に諦めるな」と母からメールで激励を受けた。それをお守り代わりに「おかげで緊張や不安はまったくなくなった」と言う。

 卒業後はNTT西日本入りが内定。家族との距離も近くなる。「これからは僕も支えられるようになりたい」。20年東京五輪出場も恩返しの1つだが、まずは箱根で恩返しをしたかった。「人間なので毎回順調に走れることはないが、諦めない気持ちを家族や後輩に伝えようと思った。言葉でなく心と体で」。笑顔で胸を張った。【鎌田直秀】

 ◆馬場翔大(ばば・しょうた) 1993年(平5)10月23日、岡山市生まれ。中学時代に駅伝で岡山県優勝の経験がある姉このみさんの影響で、小5から競技を始める。岡山・倉敷高時代は全国高校駅伝2位。箱根駅伝では2年生で5区3位、昨年は同17位。座右の銘は「目は高く、頭は低く、心は広く」。家族は母、姉と兄智也さん。168センチ、56キロ。血液型はA。

 ◆昨年5区VTR 駒大が2位の青学大に46秒差をつけ、馬場がトップでタスキを受け取った。前年の5区で3位と山登りに自信を持っていた馬場だったが、小田原中継所とは温度差が激しく、山に入って急に冷え込んだことが体をむしばんだ。10・5キロ付近で神野に抜かれると次第に失速。22キロ手前で足が大きく震え、糸が切れるように前のめりに両手をつき、膝を折った。明大、東洋大に抜かれ、何とか芦ノ湖までたどり着いたが、ゴール直前で3度も転倒。観客から悲鳴と「頑張れ!」の声が起きた。ゴール後に救急車で緊急搬送された。駒大は首位青学大とは7分25秒差の往路4位となった。