ラグビー日本代表で主将と監督を務め、16年に胆管細胞がんで他界した平尾誠二さん(享年53)の命日が10月20日に訪れます。

今年は三回忌。日刊スポーツではウェブ限定で「平尾誠二の遺言」として、世界に挑み続けてきた姿を振り返ります。2回目は元日本代表CTBの元木由記雄(47=現京産大ヘッドコーチ)に伝えた、ある言葉に迫ります。

 

忘れられない言葉がある。それは、四半世紀が過ぎた今でも、元木の胸に深く刻まれている。

「お前は世界を見ろ」-

明大4年だった93年のこと。既に日本代表のCTBとして活躍していた元木が、進路を決める時期に差し掛かっていた。当時の日本ラグビー界の構図は、神戸製鋼が日本選手権5連覇を達成。新日鉄釜石に続く7連覇へ歩んでいた時期だった。ある日、その神戸製鋼で主将を務めた経験があり、日本代表でも絶対的な存在だった平尾に呼ばれ、告げられた。

「『世界を見なアカン』と。『うちに入って、神戸から世界に出て行け』と、そう言われたんです。ちょうど、社会人のチームを決める時でした。大学時代には(日本選手権で)神戸と3回対戦して、3回とも負けていましたから。僕自身、神戸で平尾さんとやりたいという、そんな思いがあった」

より成長するために、神戸に行きたいという漠然とした考えは抱いていた。だがその言葉は決定打として、元木の決断を後押しした。

平尾との間には、切っても切れない縁のようなものがあった。大学2年時の91年4月。日本代表の北米遠征でメンバー入りを果たした元木は、ミネアポリスで行われたアメリカ代表戦でスタンドにいた。まだ戦術的な交代が認められていなかった時代。CTBの平尾が後半途中にケガをするアクシデントに見舞われた。プレー続行は不可能だった。負傷交代で、平尾の定位置に入ったのが、まだ19歳8カ月の元木だった。それが、日本代表としての初キャップになった。

「初めてジャパンに入ったのは、大学2年の時でした。平尾さんがキャプテンで、朽木さんと両CTBを組んでいたんです。僕にとっては、手の届かない人たちでした。そういう中に入って、すごく緊張していたのを覚えています」

その頃から、偉大な背中を追い続けてきた。

明大在学中、日本選手権で神戸製鋼との3度の対戦は、1年時の90年度が15-38、2年時の91年度は12-34、4年時の93年度は19-33。どれほど努力をしても、その差は埋まりそうで埋まらなかった。それは、平尾との差でもあったのかも知れない。

日本代表を強くするため、そして、平尾誠二という高い壁に追いつくために選択したのが、神戸に進む道になった。

94年春には元木とともに、早大のWTB増保輝則、法大のNO8伊藤剛臣ら大学のスター選手がこぞって入部した。彼らはみな「ミスターラグビー」と呼ばれた男を慕って、神戸の門をたたいた。神戸製鋼での平尾は、監督制を廃止して自主性を促したチームの中心にいた。幅広い人脈を生かしてスカウティングにも動き、まさしく日本ラグビーの象徴のような存在になっていた。元木らの入社1年目に、新日鉄釜石に並ぶ日本選手権7連覇を達成。阪神淡路大震災に襲われたのは、その2日後だった。

翌年度に8連覇の夢が途絶えると、97年から平尾は選手登録をしながら神戸製鋼のGMに就任。同年2月には34歳で日本代表監督を任された。引退が近づいても、輝きが薄れることはなかった。神戸製鋼では平尾の発案もあり、バックスのラインを横一列に並べる革新的なフラットラインを導入し、99年度には5季ぶりの日本選手権優勝を果たしている。当時を、元木はこのように振り返る。

「普通は、新しいことを取り入れる時には、戸惑いがある。でも、平尾さんは頭の回転が他の人とは違っていた。イメージするのがうまい。具現化して、それを選手に落とし込むことができる人やった。V7が終わって、再び優勝したシーズンに採用したフラットラインは、平尾さんが考えた戦法でした。僕たち選手は、多少の戸惑いはあっても、『平尾さんが言うなら、いけそうだ』という思いがあった」

神戸では黄金時代を築いたが、日本は世界の強敵に勝とうと、もがき苦しんだ。イングランドを中心に開催された99年ワールドカップ(W杯)で、平尾ジャパンは、ウェールズ、サモア、アルゼンチンに敗れ3戦全敗。それから時は流れ、日本の立ち位置は変わりつつある。前回の15年W杯で、日本は世界一の経験のある南アフリカを撃破。日本開催となる来年のW杯では、ベスト8の扉をこじ開けようとしている。

志半ばでこの世を去ったが、日本の進化の過程には、世界に果敢に挑み続けてきた平尾の存在が確かにあった。

紳士的に見える平尾だが、いざグラウンドに出れば激情家でもあったという。元木をコーチに招聘(しょうへい)した京産大の大西健監督は度々、自宅に招くことがあった。

「ひと言で表すなら、平尾君は義理堅い人でした。でも、代表監督をしていた頃にこんなことを言っていたのを覚えています。『僕は選手をむちゃくちゃ怒る。どう思われてもいいから、厳しく指導することがあるんです』と。あの言葉は、印象的でしたね」

紛れもなく、それは世界に勝つ選手を育てるためだった。

平尾が亡き今でも、その意志は受け継がれている。

「世界を見ろ」-。

四半世紀も前に、元木に伝えた言葉-。それは、W杯に挑む今の日本代表にも、確かに響いている。(敬称略)【益子浩一】