1964年の東京五輪から5カ月、65年3月に映画「東京オリンピック」は公開された。50歳を目前に脂ののりきった故・市川崑監督がメガホンを取り、1950万人を動員。01年の宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」まで、実に36年間この記録は破られなかった。【相原斎】

64年7月、マラソンコースをロケハンする市川崑監督。トレードマークのくわえタバコで指揮をとる
64年7月、マラソンコースをロケハンする市川崑監督。トレードマークのくわえタバコで指揮をとる

<ニュース映画カメラマン164人>

 突然、選手の足元がズームアップされる。人類最速を競う100メートル走が超スローモーションで再現される。映画「東京オリンピック」は半世紀を経た今見ても驚きに満ちている。当時高校生だったビートたけし(68)はドキュメンタリー番組(WOWOW)の中で「ボブ・ヘイズ(米=10秒フラットで優勝)の上半身しか映さない。ゴリラみたいな走りが印象的だった」と100メートル決勝シーンの印象を語っている。

 型破りの記録映画は完成試写の段階から論争を巻き起こした。河野一郎五輪担当相が「訳が分からん、作り直せ」と発言すると、女優の高峰秀子さんが「とってもキレイで楽しい映画でした。(製作を)頼んでおいてひどい話じゃないですか」と反論した。結局、高峰さんの計らいで河野-市川対談が実現し、河野担当相はしぶしぶながらもこの作品を認めることになる。

 市川監督の長男で、崑プロ代表の建美さん(70)は「(映画製作の)依頼が来たのは春頃、大会まで8カ月もなかった」と振り返る。五輪委員会は当初、黒沢明監督に話を持ち込んだが、条件が折り合わない。いわば時間切れ寸前の状況で、市川監督におはちが回ってきたのだ。

 名カメラマンとして知られた宮川一夫氏が主導したが、現場で撮影に取り組んだのは「ニュース映画」のカメラマンたちだった。当時の映画館では本編の前に必ず「ニュース映画」が上映された。テレビはまだ萌芽(ほうが)期にあり、報道の主流は新聞とニュース映画という時代だった。

 若手のカメラマンとして参加した山口益夫さん(82=産経映画社社長)は市川監督との最初の会合を鮮明に覚えている。ニュース映画大手7社164人のカメラマンが集まり、活気に満ちていた。

 「市川監督はこの映画にはシナリオがある、と切り出した。演出とか創作という言葉も出た。ベテランの中には『そんなのやってられんわ!』といって席を立つ人もいました。僕はただ、そんなものなのかなあ、と思っていましたけど」

 シナリオの序文にも「我々はこの映画を単に記録として製作するのではない。創作するのであり、このシナリオはその最初に踏み出す一歩の一助にと願うものである」とあった。60年安保の余韻で騒然とした中、カメラマンたちには体を張って時代の真相に迫っているという誇りがあった。シナリオの存在に違和感を覚えたとしても無理はない。だが、ユニークな市川演出は次第に彼らの心をとらえていく。

<国体開会式の音声かぶせ創作>

 開会式の入場行進では足元のアップが随所に使用されたが、市川監督は「音が弱いな」。直近の国体開会式で収録された音声が、ここにかぶされた。文字通りの演出であり、創作である。

 「でもね。ラッシュ(部分試写)で見ると、迫力のあるいい出来上がりになっていた。国立競技場ではもっと低く、ローアングルでって。できないなら穴を掘れ、ですから。面白いと思った。結局はちょうどグラウンドレベルに顔がのぞくくらいの低い通路があってそこを利用したんです」と山口さんは言う。

 「ピンク映画」で知られる山本晋也監督(76)は撮影助手として参加した。「女子80メートルハードルなどはとにかくセクシーでしたね」。日程の都合で急きょカメラを持たされたのが男子砲丸投げだった。「とにかくアップ撮ってよ、という指示でした」。

 投てき前にひたすらゼッケンをいじる選手。角がはがれて三角形に折れる。それでも手は止まらない。ラグビー日本代表の五郎丸歩選手(29)がゴールキック前に行う「ルーティン」のような精神集中の動作。市川監督はこのアップ映像も生かし、コミカルな味付けにしている。

<720度ノーカット「奇跡の映像」>

 女子800メートルはトラックを2周。これをグラウンド中央から720度ノーカットでカメラを回し続けたのも山口さんだった。途切れなくランナーを追った「奇跡の映像」だ。

 「競技場の真ん中でやぐらに乗って、まるで見せ物ですから。みんな嫌だ嫌だって。結局、若手の僕に回ってきた。会場では他に10台の固定カメラがあり、僕の映像がなくてもしっかりと追うことができる態勢だった。うまくいけば何カ所か挿入映像にしてもらえる、くらいのつもりだった」

 が、「誰も見たことのないような映像」を市川監督が放っておくわけがない。劇中ではフルで山口さんの映像が使われた。

 最終日のマラソンでは大型の米国車の座席を外した特製の撮影車が投入された。映像を安定させるために当初はそば店が出前用に使うバネを使う予定だったが、大型カメラの重量には耐えられない。「カツオ漁に使う強靱(きょうじん)なバネを持ってきた」(山口さん)という。

<NHKとレース中「バカ野郎」>

 レースを追うのは山口さんたちの記録映画車とNHKの中継車の2台。中継優先で、NHK車の前には決して出ないという約束だった。だが、レースが始まれば「最高の映像」しか念頭にはない。

 「言葉は荒くなりましたね。あっちが『どけ、この野郎!』となれば『こっちも仕事だ。バカ野郎!』となる。なんて言われようと、もうこれで大会は終わりだからね。撮ったもん勝ちですから」

 山口さんは当時を思い出したように笑った。

 コースとなった甲州街道には、まだ瓦屋根が並び、「街道沿い」の趣があった。

 「往路もたくさんの人がいたんですけど、復路になったら道路はもちろん、屋根の上まで人が鈴なりになっていた。壮観でした」

 完成した映画は2時間50分。撮影されたフィルムはこの20~30倍あった。

 「父は正月休みに編集機材を自宅に持ち帰ってきました」というのは、当時大学生だった建美さんだ。「そのときは珍しく父が『手伝ってくれ』と。一日中その機材の前で作業を続けました。とにかく、時間がなかったですね」という。

 4カ月にも及んだ編集作業にも市川監督のさまざまな思いが込められている。前半で扱った競技の勝者は米・ソ・米・ソ…と並べられ、当時の米国と旧ソ連の対立を象徴している。太陽のアップには「すべての国の上に輝く平和のシンボル」という思いが込められていた。シナリオ序文の最後に「そして、この映画を見る人には、人間のすばらしさとかなしさを!」とある。

 半世紀を超えても、その思いは映像から伝わってくる。

五輪特集◆日本の映画観客動員数◆
五輪特集◆日本の映画観客動員数◆

 ◆五輪と映画 12年のストックホルム大会から04年のアテネ大会まで毎回記録映画が製作されている。

 市川監督が参考にしたのは36年ベルリン大会の「民族の祭典」(レニ・リーフェンシュタール監督)。芸術的に評価されながら、ナチスの国策映画として議論を呼んだ作品だった。「平和」をテーマにした市川作品とは対極にあったが、72年のミュンヘン五輪の会場で偶然会った両監督が親しく会話したエピソードもある。

 冬季五輪では68年グルノーブル大会の「白い恋人たち」(クロード・ルルーシュ監督)がフランシス・レイのテーマ曲とともに有名。日本では篠田正浩監督が72年に「札幌オリンピック」を撮っている。

 ◆市川崑(いちかわ・こん)1915年(大4)11月20日、三重県生まれ。アニメーターとして東宝入社。48年、映画「花ひらく」で監督デビュー。草創期のテレビで「木枯し紋次郎」シリーズをヒットさせた他、56年「ビルマの竪琴」、63年「太平洋ひとりぼっち」、76年「犬神家の一族」などの作品がある。08年、92歳で死去。同年、旭日重光章。

 ◆映画「東京オリンピック」 本来筋書きのないはずのスポーツを対象に市川監督と夫人の和田夏十さんのコンビ、さらには脚本家の白坂依志夫氏と詩人の谷川俊太郎氏が加わって緻密なシナリオが用意された異色の記録映画。公開年のカンヌ映画祭で国際批評家賞を受賞。01年の「千と千尋の神隠し」に抜かれるまでは36年間観客動員1位を守った文字通りの国民映画。14年の「アナと雪の女王」にも抜かれて3位となったが、アニメを除く実写映画では現在でも断然の1位であり、動員数には各地の学校や公民館での上映が一部含まれていないため、実質上の観客動員は「不動の1位」ともいわれる。


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 ◆「ノンフィクションW 記録映画『東京オリンピック』誕生の軌跡」 2014年10月に放送され、ギャラクシー賞テレビ部門選奨。12月にWOWOWで再放送が決まっている。



(2015年10月14日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。