新型コロナウイルス禍の中、知名度が急上昇したアスリートがいる。12年ロンドン・オリンピック(五輪)フェンシング男子フルーレ団体の銀メダリスト、三宅諒(29=コモンズ2)。4月に食事配達サービスUberEats(ウーバーイーツ)のアルバイトを始めたところ、剣士より自転車で走り回る人として有名になった。「二輪」から、来夏に延期された東京「五輪」へ。素顔は? 実力は? “UberEats三宅”って、どんな人?【取材・構成=木下淳】

■ロイター報じ世界中で注目

4月末から7月にかけてUberEatsのアルバイトをしていたフェンシング三宅諒
4月末から7月にかけてUberEatsのアルバイトをしていたフェンシング三宅諒

緊急事態宣言下の、時の人だった。「ロンドンで銀メダルを取った時より間違いなく注目された」。4月30日、三宅が象徴のバッグを背負って自転車にまたがると、日本の新聞やテレビなど100超の媒体、番組で扱われた。ロイター通信は世界に打電。欧州、アジア、南北アメリカの各大陸でも報道され、アラビア語の激励コメントも届いた。「フェンシング三宅からUberEats三宅になっちゃって、もう何の競技だか分からない」と苦笑いしつつ「太田(雄貴)先輩以外の名前も覚えてもらえてうれしい」と振り返った。

東京五輪が延期になり「自分の存在価値を考えてしまい、つらかった。試合もなくなり返すものがないのに、お願いだけするのは無理だった」とスポンサーとの契約を保留。お金がない銀メダリストとしてバイトを始めた。企業は正直、マイナー競技の大会の「結果」よりも選手の「イメージ」を求める。あのバッグを4000円で購入し、利用登録。週1~4日、多い日で5時間、10~20キロほど走り、7月までに総額4万円ほど稼いだ。年間300万円の遠征費からすれば微々たるものだが「1円でも、夢のために動いている実感がほしかった」。日銭稼ぎではなく、応援される人間になるため。「注目してもらえて助かった。そうでなければ心が折れていた」。

3カ月後の7月20日。保留していた1社を訪ねた。「待っていたよ」と活動を評価され「五輪に出たい」と自信を持って言えた。契約更新。現在4社からサポートを受け、来夏までの活動資金を確保した。フェンシング界にはコロナ禍で所属が変わったり、働かなければいけなくなった仲間もいる。「これからのアスリートは自分でお金を用意する能力も必要」とニューノーマルを体現。「From Pedal To Medal」を合言葉に「二輪」から「五輪」を目指す。

■リオ後雲隠れも昨年代表復帰

12年8月、ロンドン五輪・男子フルーレ団体で獲得した銀メダルを手に笑顔を見せる、左から淡路卓、太田雄貴、三宅諒、千田健太(撮影・PNP)
12年8月、ロンドン五輪・男子フルーレ団体で獲得した銀メダルを手に笑顔を見せる、左から淡路卓、太田雄貴、三宅諒、千田健太(撮影・PNP)

1990年(平2)12月24日に千葉・市川市で生まれ、5歳の時に地元のカルチャースクールでフェンシングを始めた。父正博さんは剣道家だったが、本場欧州からビデオを取り寄せて研究。幼少時は自宅の廊下で基礎動作の前進と後退を繰り返した。小学6年で日本一、中学2、3年時は連覇。生徒会長も務め、平均4・2以上が必要な内申点もクリアしてAO入試で慶応高に進んだ。「部活は僕を入れて5人の超弱小校だった」が駆け引きとカウンター攻撃を武器に、07年の世界ジュニア・カデ選手権フルーレ個人で金メダル。当時、各年代を通じて日本人初の世界王者となった。

178センチの左利き。日本協会の「600日合宿」で鍛えられ、慶大4年時にチーム最年少で12年ロンドン五輪に出場した。個人は初戦敗退も、太田雄貴、千田健太、淡路卓との団体では準決勝ドイツ戦で唯一勝ち越すなど、史上最高の銀メダル獲得に貢献した。大学では文学部哲学科で中世哲学を専攻。卒論テーマは「騎士道」という知性派だ。

16年リオデジャネイロ五輪は代表から漏れ「8カ月くらい現場から離れた」。その間にしたことは「自動車免許の取得」と説明するが、戦略的に表舞台から消えていた。当時、剣を背後に隠し、まず相手に攻めさせる戦術が流行。「カウンター型の自分では勝てない時代だった。ならば、誰かが対策法を編み出すまで待とう(笑い)」。ルール改正もあり再び第一線へ。昨年のアジア選手権では最年長の経験も買われて代表復帰し、10年ぶりの金メダルに導いた。世界選手権メンバーにも返り咲いている。

■3カ月で帰国子女とZoom婚

10年6月、高円宮牌W杯東京大会で準々決勝進出を決めガッツポーズで喜ぶ三宅諒 
10年6月、高円宮牌W杯東京大会で準々決勝進出を決めガッツポーズで喜ぶ三宅諒 

今夏、金融系企業に勤める同学年の万里衣さん(30)と結婚した。話題になったのは「Zoom婚」。リモートで出会った。「UberEatsを始めた翌週。友達に呼ばれたZoomで、はじめまして」。1度も会わずに結婚説も出たが「そんなわけない(笑い)」。3カ月でプロポーズ。収入が安定しなかった時期を思えば驚きで「自分の夢に懸けてくれた」と感謝している。

帰国子女の新婦は、米国のオバマ前大統領と同じハワイ州の高校出身という秀才。その後、意外な縁があった。三宅が五輪に出場した12年はロンドン大に在学しており、しかも新聞社の通信員としてロンドン五輪の陸上などを取材。ともに夢の舞台を経験していた。

趣味はランニング。ツイッターに「生まれてこのかた5キロ以上の距離を走ったことがありません」と記す三宅にとっては「一緒に走らされて最初は大変だった」が、29歳にして1周5キロの皇居を完走できる体に。アスリートフードマイスターの資格も取得中といい、支えられている。

婚姻届を提出したのは8月1日。来年、東京五輪の男子フルーレ団体が実施される日だ。「一緒に目指したい」と夫婦で夢を。結婚式は翌9月の予定という。

■YouTubeで発信&武者修行

ボクシング元世界王者の長谷川穂積氏(左)とトレーニングや対談で交流したフェンシング三宅諒
ボクシング元世界王者の長谷川穂積氏(左)とトレーニングや対談で交流したフェンシング三宅諒

フェンシングの競技コート「ピスト」を離れた活動も幅広い。「五輪に向けた活動を発信し、感情を共有してもらえれば」と公式YouTubeチャンネルを開設。「武者修行」と題してボクシング元世界3階級王者の長谷川穂積氏から「世界を制したフットワーク」を学び、同王者の内山高志氏との回では「地獄のサーキットトレーニング」をこなし「根性とスタミナありますね」と褒められた。

「ピストの上の哲学者」を名乗り、投稿サイトnoteに持論をつづる。ツイッターでは日々、英語のワンポイントレッスンを配信中だ。16年リオ五輪の後、現日本協会の太田会長が引退した時を思い出す。「現役最後のあいさつが『みんな、英語を勉強しよう』。何を語るのか、すごく期待していたのに本当に一言だけ(笑い)。でも今はFIE(国際連盟)副会長としても活躍されているし、話せれば可能性は広がる」。自宅では夫人と英語だけで会話する日も多いという。

■5、6番手から狙う逆転出場

東京五輪に向けて「常に“勝ち”を意識する」と色紙につづったフェンシング三宅諒(撮影・木下淳)
東京五輪に向けて「常に“勝ち”を意識する」と色紙につづったフェンシング三宅諒(撮影・木下淳)

日本勢「5、6番手」からの逆転出場を目指す。開催国枠となる見通しの男子フルーレ団体に照準。代表主将で今年の全日本選手権王者の松山恭助や、西藤俊哉、敷根崇裕、鈴村健太、昨年日本一の永野雄大と競っている。協会の推薦枠に入るためには、来年1試合ある予定の国際大会等でアピールすることが必要だ。

一方で9月の全日本では16歳の飯村一輝を相手に初戦敗退した。「負けて記事になったことが少し新鮮だった。勝たないと記事にならない競技なので」とは思いつつ「直接の選考には関係ないけど、印象的にマイナス」と後がない状況だ。

それでも、最年長として「生き字引にならないと。太田先輩が(08年北京五輪で銀)メダルを取る前から代表を見てきたので。その経験を後輩に受け継ぎ、チームをまとめないといけない立場だと思っている。ロンドン五輪は『太田雄貴と愉快な仲間たち』だった。今度は自分が。そのために僕が最も強いことが理想」と言い「常に勝ちを意識する」と色紙に書き込んだ。

会場の幕張メッセは地元千葉。7月には県や市にマスクを寄贈。「選手村から向かうバスは実家の近くを通る。まさにホーム」と錦を飾りたい。「開幕まで再び250日を切った。1日1日、どう自分を向上させられるか。延期の意味があったと思えるよう、まずは出場を目指して頑張りたい」。コロナ禍の中で「五輪と口にしていいのか…」と迷った時の自分は、もういない。