2020年の夏、14年間暮らした米国の自宅を引き払い日本へ帰国した。本来なら、東京オリンピック(五輪)を取材した後に米国へ戻り、引き続きMLBを中心に活動する予定だった。だが、新型コロナウイルスの影響でプランが崩れた。

昨年の3月上旬に突然、MLBのキャンプが中断されたときから不穏な空気が流れ始めた。よく言えばおおらかだが、他人と距離を取ることが苦手な米国人の感染者数は、うなぎ上りだった。キャンプ地から外出禁止令が出されたカリフォルニアに戻ると、あちこちの店舗で買い占めが起きていた。わが家のトイレットペーパーも残り1個になったときもあった。

ロックダウンで閑散としたダウンタウンでは、無人店舗に侵入して警備員に追いかけられる若者や、繁盛するガンショップを目の当たりにした。また、欠航便だらけで空っぽの空港は見るからに不気味だった。不安な気持ちで過ごす毎日。そして3月24日、延期が正式に決まり、落胆した。

振り返れば2013年9月、アルゼンチン・ブエノスアイレスで開催されたIOC総会で、東京五輪開催が決まった瞬間の光景が今も目に焼き付いている。いち早くガッツポーズをした太田雄貴氏、感極まる安倍晋三前首相や関係者たち。母国での開催に興奮しながらカメラのシャッターを切った。「東京で五輪取材ができたら夢みたいだ」と、胸を躍らせたことを覚えている。

7月にMLBは再開されたが、写真取材ができたのは、数社のみ。私は選ばれなかった。NBAやPGAなどのスポーツイベントも次々と取材ができなくなった。その先、いつ取材許可が下りるか何の保証もない状況下でじっと待つより、水際対策は厳しくても取材ができる日本へ拠点を移すしかないと、決意した。

家財道具を詰めた11個のスーツケース、乗客がほとんどいない飛行機、丸1日がかりのPCR検査、帰国者専用タクシーと14日間の隔離先の確保。これまで何往復もした路線だったが、精神的、肉体的、経済的にもハードな帰路だった。それでも今は、写真取材ができる喜びを日々かみしめている。

先日、東京アクアティクスセンターで行われた競泳ジャパンオープンを取材した。五輪会場で必死に戦うトップスイマーに圧倒された。選手たちの気持ちはただ一直線、五輪に向かっている。その姿を精いっぱい撮るだけだ。【写真映像部五輪担当カメラマン 菅 敏】