東京オリンピック(五輪)バレーボール男子日本代表のサウスポーアタッカー西田有志(21=ジェイテクト)は代表内定の12人のうち唯一、大学に進学していない。名門高校→大学→Vリーグの当たり前のコースに乗らず、高校から直接Vリーグに挑んだ。小学校時代から、自らを成長させるため、あえて厳しい道程を選択。そこにはスポーツ経験のある父徳美さん(53)と母美保さん(54)の教えがあった。「わが道」を貫いた雑草エースは、両親の「支える力」を糧に、日本をメダルへけん引する。【取材・構成=平山連】
「お前のせいで負けたんや!」
2016年11月。三重・海星高2年の西田が挑んだ春高(全日本高校選手権)の県予選決勝。松阪工に敗れた後、美保さんの叱責(しっせき)が医務室にこだました。バスケットボールの実業団でプレー経験のある両親が常々説くのは、やり切ることの大切さ。体力づくりを怠った結果、痛い代償を払わされた。忘れられない、大きな転機となった。
5歳で競技を始め、小学校時代には全国大会にも出場。身長は卒業時に160センチに到達した。中学進学する際、環境の整った学校に行く選択肢もあったが「自分の力で強豪校に押し上げたい」と、あえて地元のいなべ市立大安中に進学した。しかし、進学後の苦難は予想を超えていた。
バレーボール部は当時指導者がおらず、顧問はバイオリニストの音楽教諭だった。経験者はほとんどいない中、実質的な指導者としてチームを引っ張った。仲間に厳しく接すると、やめられないかと不安に襲われ、技術向上と競技の楽しさを両輪にする練習に試行錯誤。中1の秋には「選ぶところを間違えたかな」と弱音を吐いたこともあった。
徳美さん 小6の時に強豪中学に行きたいなら入学してもいいよと話していたけど、有志は「自分でメンバーを集める!」と言った。自分で決めたのなら何とかせい。迷わず、そのまま進め。最後まで貫き通せと伝えました。
中学1年の6月に三重・四日市市内のクラブチーム「NFOオーシャンスター」に入団。海星高で指揮する大西正展氏(58)らから指導を受けた。これが部活の指導に悩む大器の救いになった。
美保さん 毎週火曜だけでしたが、部活から帰ってきたら急いでご飯を食べさせて送迎しました。何にもとらわれず自分のバレーをしてほしい。道をつなぎ留めるために必死でした。
その縁で毎冬に海星高を率いて出向く近大合宿へ、中学1年で帯同を許された。当時の身長は170センチ。対戦相手の大学の監督が「あの子ええなあ」と言うほど、練習試合でも全く物おじしないサウスポーの12歳は異彩を放った。大西氏は「(対戦相手の監督に)あいつ中1ですよと伝えたら、みんな驚いてて」となつかしむ。
主将を任された中3になると身長は180センチ台に到達。憧れの存在だった、現日本代表主将の石川祐希(25=ミラノ)の母校、愛知・星城をはじめ県内外の全国大会常連の8校から勧誘があった。ただ本人は「自分の力で強いチームに勝ちたい」と、中学時代と同様に「わが道」へ。かねて交流があり、一緒に練習もしてきた海星高に進んだ。
高校3年間ではインターハイ出場は1回(ベスト16)、春高には1度も出られなかった。五輪代表入りした高橋藍や大塚達宣は春高優勝と大会MVPを獲得している。2人のようにエリート街道をたどれず、高2の時には美保さんから冒頭の言葉を吐かれた屈辱の試合に直面する。
3セット先取の試合で、序盤から得点を重ねるも、時間がたつごとに高く跳べなくなった。勝負の第5セットで両足をつり無念の途中交代。エースを欠いたチームは敗れ、全国切符を逃す。両親から言われ続けた体力作りを怠った結果、チームを引っ張るために選んだ高校で自身のふがいなさを露呈した。怒りが抑えられなかったという美保さんは「周りは頑張ったとたたえていましたけど、誰が頑張ったん? という感じでした」。号泣する息子に感情込めて準備の必要性を説いた。
競技者として人生初の大きな挫折。この敗戦で「負けん気は強いけど、泣き虫だった」(徳美さん)男は変わった。練習から帰宅しても近所を走ったり、筋トレに励んだ。体作りの成果が表れ、試合終盤までパフォーマンスが落ちなくなった。高校3年で主将になったこともあり、責任感も増すなど、心身ともに成長した。
徳美さん 落ちるところまで落ちて、自分で何とかした。大きな分岐点だった。
挫折を乗り越えると、バレーボールに懸ける気持ちは、さらに強固になった。高卒後の進路は名門大に進まず、Vリーグのジェイテクトを選んだ。男子バレーの場合は大学からトップリーグに進むのが王道になっている。西田のように高卒からVリーグに進んだ例は極めて少ない。それでも、これまで道なき道を選んできた男は「チャンスがあるなら」と常識にとらわれない。少しでも早く競技に専念するため、Vリーグの道を選択した。
18年1月の堺戦で高校生選手としてVリーグ史上最年少の17歳でデビュー。いきなりチーム2位の10得点を記録。続くJT戦ではスタメン出場でチーム最多26得点をたたき出した。同年秋にプロ契約に移行。19-20年シーズンには、ジェイテクトを悲願のVリーグ初優勝に導き、日本人初の得点王(645点)に輝いた。今季チームは4位だったが、833得点と日本人最多得点記録を更新した。
男子代表の中垣内祐一監督や主将の石川からも厚い信頼を寄せられ、誰もが認めるエースに成長した。「自分で決めた道のりは最後までやり遂げろ」と説く両親は、今も試合があると会場に駆けつける。勝負の世界に身を投じる西田のためにできることは、こちらも本気になって見守ること。徳美さんは「オリンピックには中途半端に、お情けちょうだいでは、出て欲しくない」と高いハードルを課した。
両親から、愛情の裏返しでもある厳しさで支えられた21歳は、自ら険しい道を選びながら、大舞台を目前にした。「支えてくださった方々のおかげで今がある。結果で恩返しがしたい」。08年北京以来の五輪出場となるバレーボール男子。予選突破、さらにはその先のメダル獲得へ。「わが道」を歩んできた西田の力が欠かせない。【平山連】
◆西田有志(にしだ・ゆうじ)2000年(平12)1月30日、三重県いなべ市出身。母に連れられ生後5カ月で初めてバレーボールに触れ、5歳で三重の大安バレーボールスポーツ少年団に入団。大安中-海星高卒業後、17-18年シーズンからジェイテクト入団。19年W杯では4位に貢献し、ベストサーバーとベストオポジットに選ばれた。好きな歌はブルーハーツの「人にやさしく」。自分を動物に例えると、ゴリラ。186センチ、80キロ。
■編集後記
目の前に並べられた西田の写真や文集は、全部で100点以上に上った。法被姿で笑みをこぼす幼稚園時代、相手のブロックの上からスパイクを打つ高校時代など。両親に写真、資料をお願いすると、想像を超えた枚数を用意してくれた。厳しい叱咤(しった)の裏には深い愛情があることを実感した。
両親とは5月の日本代表紅白戦の話になった。右足首の捻挫で途中交代をした西田を心配する様子は口ぶりからはあまり見えなかったが、実は違う。美保さんは「捻挫なんてすぐに治るでぇ」とライン。本人からは「そうやで!」と一言の返事があったという。気遣う親のまなざしと、気丈に振る舞う息子の姿。その短いやりとりの中に、深い親子の絆が垣間見えた。【平山連】
(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「東京五輪がやってくる」)















