陸上女子の田中希実(21=豊田自動織機TC)は5000メートルに加え、日本勢初となる1500メートルで東京オリンピック(五輪)に出場する。陸上一家に生まれ、現在は兵庫・西脇工高時代の同期と2人で父健智(かつとし)さん(50)の指導を受ける。親子の会話は直球勝負。互いに思いをぶつけ、時に傷つけ合い、走ることに向き合ってきた。2人の絆に迫った。

6月、日本選手権の女子1500メートルで優勝の田中
6月、日本選手権の女子1500メートルで優勝の田中

競技場、移動の車内、自宅…。21歳の娘との言い合いは、場所を問わずに始まる。父であり、コーチである健智さんは苦笑いした。

「本人がポンッと言いたいタイミングで伝えてきます。『今は空気が悪くなるし、したくないんだけれど…』という時もあります」

本来であれば東京五輪が行われていた昨季、田中は時の人になった。1500メートルで14年ぶり、3000メートルで18年ぶりの日本記録樹立。12月の日本選手権では5000メートルで東京五輪の切符をつかんだ。順風満帆に見えるが、健智さんは言う。

「苦難を乗り越えれば乗り越えるほど、信頼関係が崩れている気がします…」

父としての複雑な感情を、包み込むように続けた。

「信頼されているとは思うんですが、今は衝突して、どちらか壊れるまでやっています。何かを乗り越えて『晴れた』というより、今も『曇り』な感じです」

19年世界選手権で女子100メートル障害代表の木村文子(左)と写真に納まる田中一家(家族提供)
19年世界選手権で女子100メートル障害代表の木村文子(左)と写真に納まる田中一家(家族提供)

田中は「父の練習は同じメニューがない」と評す。ペース、インターバル、強度…。成長に合わせて絶えず変化させるが、娘は日記を見返して過去の自分と比較する。「あの時より…」「去年より…」と後ろ向きな言葉が続き、最近「お前、弱くなったよね」と厳しく伝える健智さんは言う。

「ちょっとずつ進化しているから、できなくて当然。前と比べようがない。気象条件も、レースでは相手も展開も違う。それを全部説明しても、納得しない」

親子は常にぶつかることをやめない。田中は以前「(力関係は)どっちもどっちです。どっちも傷つけ合う。言わなくていいことも、お互い言ってしまうので大変です」と笑った。それは田中家の日常といえる。

走ることが身近な環境だった。99年9月4日、田中は兵庫県中南部に位置する緑豊かな小野市で生まれた。3000メートル障害で全日本実業団選手権入賞経験を持つ父はランニングイベントの仕事と並行し、マラソン選手の妻千洋(ちひろ)さん(51)を支えた。北海道マラソン2度優勝の母は度々、岐阜・御嶽山で合宿した。両親が40キロ走に取り組む間、田中は5歳下の妹希空(のあ)さんと遊んだ。

20年1月、成人式で写真に納まる右から田中希実、母千洋さん、妹希空さん、父健智さん(家族提供)
20年1月、成人式で写真に納まる右から田中希実、母千洋さん、妹希空さん、父健智さん(家族提供)

小2の時に健智さんが、勤めていた会社から独立。自前のランニングイベントで愛知や広島に家族で出かけ、娘は給水係、受付、完走証の発行などを手伝った。家族旅行のような思い出になった。田中も自然とランニングを楽しみ「小学校から帰って私服のまま、自宅周りをえっちらおっちら走る。自分のペースなので『しんどい』という感覚もなかった」と明かす。

両親は走ることを押しつけなかった。小野南中2年時から全国都道府県対抗女子駅伝の8区を走り、2年連続区間賞。全国の強豪私学から誘いがあった。1度は母の母校であり、進学校の小野高に決めた。必要な出願書類もそろえていた。

だが、中3だった14年末に心変わりした。地元の名門である西脇工高の顧問からアプローチを受け、練習を見学しにいった。比較的自由に力を高めてきた田中にとって、ライバルと競い合う環境に魅力を感じた。

「負けず嫌いだからこそ、それまで集団行動ができなかった。『高校の3年間、やってみようかな』と思ったんです。父も母も『小野高校がいい』という雰囲気は出していたけれど、説得は本当になかったです」

決断を、父は見守った。

「振り返った時に『自分の人生、楽しかったな』って思えればいい。到達点はどこでもいいんです。それぞれに『最高の山』がある。そこからの景色が良かったら、全国大会でも、県大会でも、何でもいいと思います。自分の感性で伸びていってほしかったんです」

20年大阪国際女子マラソンで高橋尚子さん(中央)と写真に納まる田中希実(右から2人目)、父健智さん(右端)、母千洋さん(左)、妹希空さん(家族提供)
20年大阪国際女子マラソンで高橋尚子さん(中央)と写真に納まる田中希実(右から2人目)、父健智さん(右端)、母千洋さん(左)、妹希空さん(家族提供)

次は娘が父を求めた。全国高校総体では3年時に1500メートル、3000メートルで準優勝。卒業後は同大に進学し、競技は新設されたクラブチームで行う道を選んだ。だが、チームは当初のイメージ通りに進まず、1年足らずで環境を変えた。西脇工の同学年である後藤夢と共に健智さんの指導を希望し、現在の形になった。

19歳になっていた娘に対し、初めての本格指導が始まった。父も悩んだ。「駆け込み寺みたいなスタート。自分と家内は(キャリアの)終わりに向かって進んでいた活動だったけれど、彼女たちには未来がある」。豊田自動織機のサポートを受け、3人で練習し、試合に出向く。学連に属さず、実業団でもない。娘と後藤には「自由は一番厳しい。責任も全部自分で背負わないといけない。結果が全てで、何も守られるものがない。結果が悪かった瞬間、皆さん違う方向を向いてしまうよ」と伝えてきた。

何度もぶつかりながら親子は同じ絵を描いた。五輪を思い浮かべ、父は言う。

「世界はラスト1周で『よ~いドン』するんです。そこで勝負し、打ちのめされたい。例えばせっかく前でレースを展開していたのに、ラストに朽ち果てて、残り100メートルでごぼう抜きされる。それでも『そこまでは勝負できた』と思える。五輪後の次の目標で、100メートルの差を埋める努力をすればいい」

20年9月、自宅前で写真に納まる左から、父健智さん、田中希実、母千洋さん、妹希空さん(家族提供)
20年9月、自宅前で写真に納まる左から、父健智さん、田中希実、母千洋さん、妹希空さん(家族提供)

トラックの実情は厳しい。田中が持つ1500メートルの日本記録は約15秒、5000メートルの自己記録は約1分近く世界記録に及ばない。72年ミュンヘン五輪から始まった1500メートルは、過去に日本勢の出場がなかった。

「僕が五輪でやってほしいのは、走り終わって『楽しかった』って思えるレースです。『悔しかった』じゃなく『楽しかった』。例えば『もう1回出たい』と思うような、走りをしてほしい。世界一の運動会じゃないですか。かけっこの」

先月27日、大阪・ヤンマースタジアム長居。日本選手権最終日、田中は観衆からの拍手に包まれていた。わずか30分前の800メートル決勝で3位。その疲労を抱え、五輪出場権を持つ5000メートル決勝も3位に入った。常識に縛られない短時間の2レース後、声が弾んだ。

「未知の部分に挑戦できた。去年をなぞるのではなく、新しいことに、前向きに取り組めたと思います」

少しばかり、晴れ間は見えただろうか。いついかなる時も、受け止めてくれる人がそばにいる。【松本航】

19年9月、スペイン遠征で笑顔を見せる田中希実(左)と父健智さん(家族提供)
19年9月、スペイン遠征で笑顔を見せる田中希実(左)と父健智さん(家族提供)

◆田中希実(たなか・のぞみ)1999年(平11)9月4日、兵庫・小野市生まれ。小野南中3年時に全国中学校大会1500メートルで優勝。西脇工高を経て、同大1年だった18年のU20(20歳未満)世界選手権では3000メートル優勝。19年世界選手権5000メートル14位。趣味は読書。小学生の頃は「赤毛のアン」「がんばれヘンリーくん」シリーズなどを愛読。153センチ。

◆田中健智(たなか・かつとし)1970年(昭45)11月19日、兵庫・小野市生まれ。三木東高で陸上を始め、卒業後は川崎重工に在籍。3000メートル障害で全日本実業団選手権入賞経験あり。25歳で引退後は小野市に戻り、仕事と並行して、妻千洋さんのマラソンをサポート。現豊田自動織機TCコーチ。

<取材後記>

6月の日本選手権前、健智さんと同大近くで待ち合わせた。大学4年生の田中は数少ない授業の日。1コマ分の時間で、父の話を聞いた。「苦難を乗り越えれば乗り越えるほど、信頼関係が崩れている気がします…」。重たい言葉だった。

今季は海外勢にもまれる場がなく、国内では同じようなレース展開が続いた。注目され、日本記録に届かなければ、ため息も聞こえる。自然と内向きになる娘に対し、健智さんも悩んだだろう。「例えばですけれど『お前なんか、もう面倒見たくない!』とまで言ってしまえば『良くなりたいから意見を言ったのに、なんでそうなるの』となりますしね」と言っていた。

昨春、田中から聞いた。「父も私も性格が似ている部分があります。負けず嫌いで雑草魂みたいな…。エリートなわけじゃないけれど、自分で考えて、道を築いてきた。それを走りで表現できるのも、私自身うれしいです」。根底には、通じるものがある。【松本航】

(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「東京五輪がやってくる」)