<日本バレーボール協会強化事業本部長 荒木田裕子(61)>

 1964年の東京五輪の時は小学生で、秋田の田舎でテレビで見ていた。当時五輪はテレビの向こう側の世界で、まったく自分の手に届かないところにあると思っていた。今の子どもたちは、Jリーガーや五輪の金メダルに憧れる。そういう夢すらない時代だった。

 五輪が具体的に見え始めたのは、全国高校バレーで準優勝してほとんどの実業団チームから誘われた時。「うちのチームで五輪を目指そう」と誘われて、そこではじめて五輪に出られるのかなと思った。当時は全日本に入ること=メダルというくらい代表が強かった。だから、全日本に入ればメダルがとれた。進学希望だったけど、先にやれることをやりたいと思って日立に進んだ。

 今やっているデータバレーなどの原点は当時からあった。日立はICチップ作りなど、コンピューター関係は得意だった。モントリオール五輪のころには、バレーボール仕様のパソコンをつくっていた。でも当時のパソコンはすごく大きくて重たくて、持ち歩けない。パソコン係だった私は昼休みに自転車をこいで会社行って、手書きでためておいたほしいデータを全部パソコンに入力した。今と同じようにコートを9分割して。プリントアウトされた紙はスーパーのレジシートみたいだった。とにかく、現代バレーのベースは70年代に始まっていた。

 東京五輪まであと5年とちょっとしかない。もっとオールラウンダーを育てたい。体がすぐ大きくはならない。女子は2020年の中心になる選手も小さい。それでも勝たないといけない。そうなれば、例えば180センチのアタッカーを、サーブもレシーブもできるようにさせないといけない。打てても、サーブレシーブがよくても、そればっかりでは勝てない。全部そろった選手を1人でも多く増やせないといけない。

 女子は金メダル、男子は表彰台にあがりたい。男子は2メートル近い若い選手がいるから鍛えがいがある。女子はいまの全日本の選手をケガさせないようにして、何人かいれていくのが一番いい方法だと思う。

(2015年05月20日東京本社版掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。