<発明家 ドクター・中松(88)>

 僕の人生は、東京五輪と一緒に歩んできた。小学生の時から東京・世田谷の下馬に住んでいるが、20分ぐらい歩くと、駒沢オリンピック公園がある。オリンピック道路と呼ばれた駒沢通りも近い。東京五輪への期待と失望を肌で感じながら、生きてきたんだ。

 子供のころ、その道路を見て「なんて広いんだ」と驚いた。周辺は農耕地の細道ばかりだから。1940年(昭15)東京五輪に備えて、都心と駒沢公園をつなぐ役割だった。「五輪が来るぞ」と地元が盛り上がっていた。しかし日中の武力衝突などの影響で、五輪開催はなくなった。すごく落胆したのを覚えている。

 戦後の48年ロンドン五輪には、日本は参加できなかった。悔しかった。同じ時期に古橋広之進さんは、世界記録を上回るペースで泳いでいたんだから。僕は戦時中に海軍を目指していたので、長時間泳げる平泳ぎを中心に練習するため、目黒区碑文谷の日大プールを使っていた。このプールで練習していた古橋さんに「頑張ってよ」って声を掛けたら、「君も頑張れよ」って言われた(笑い)。五輪に出ていたら、必ず金メダルだった。

 59年に、64年東京五輪の開催が決定。40年の開催権返上の悔しさを覚えているから、うれしかった。「ようやく来るな」と。開会式だけ、実際に見ました。オリンピック・マーチが海軍の行進曲に似てると感じた。駒沢通りも、ようやく五輪の役割で使われた。

 91年から計7度、都知事選に出馬したが、一貫して掲げる公約が、「タレント・オリンピック」。スポーツだけでなく、多くの分野のタレントが参加すべきだ。今の五輪は、招致にも施設にも金がかかり過ぎ。金もうけをする商売の場になっている。本来の五輪精神に立ち返り、純粋な競技会に徹してほしい。

 3年後の東京五輪では、私の発明品を使ってほしい。開閉会式では、フライングシューズがお勧め。面白いショーができる。ゴルフ選手が「ドクター・中松パター」で打てば、カップに5倍入りやすくなる。人間性能向上ロボット「セレブレックス」(見た目は1人掛けソファ)に座ると、動体視力が向上。選手が使えば、みんな金メダルだ。

(2017年4月5日東京本社版掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。