「円谷幸吉選手が2位で国立競技場に戻ってきました」。授業中の放送で、勉強はそこで終わり。みんなで応援した。中学3年でした。オリンピックってすげぇなぁ。そう思いました。

64年6月に新潟国体があり、閉幕1週間後の6月16日が新潟地震。大きな鍋を持って給水所まで水くみに行く毎日でした。10月の東京五輪。バンタム級で金メダルを取った桜井孝雄選手をテレビで応援した興奮をよく覚えています。

翌年、新潟南高でボクシングを始めました。プール脇の小屋でワイシャツのまま、サンドバッグをたたきました。高2の高校総体フリー級(現在のライフトライ級)で準優勝することができました。敗れた相手は68年メキシコ五輪代表になる大分の中村哲明さん。私も法大1年の68年にメキシコ五輪代表候補になれましたが、明大2年の中村さんのスピードが上でした。

75年に新潟に戻り、指導を始めましたが、何度タオルを投げたことか。部員の喫煙、飲酒を先生から注意され、スナックの割引券を部員から取り上げるところからのスタートでした。

法大ボクシング部の恩師渡辺政史先生は、乱暴な強さを否定し、人間形成を重視した「学識派」でした。母校を変えるには強くなること。強さを求めれば練習への姿勢が変わり、生活態度も変わる。残ったのは1年部員5人だけでしたが、彼らが教員となり、各校の垣根を越えたオール新潟の練習が始まりました。

オール新潟の仲間から、佐々木忠広選手がバルセロナ五輪に出場し、アトランタ五輪では仁多見史隆選手が続きました。その場で大騒ぎこそしませんが、後になって、じわっと来る感覚は本当にうれしいものです。

今年、日本ボクシング連盟の問題を「日本ボクシングを再興する会」として告発しました。新体制には、改革の苦しみもあります。国際ボクシング協会(AIBA)の混乱から、国際オリンピック委員会(IOC)は東京五輪からボクシング競技を除外する選択肢を保持したままです。それでも、東京五輪を目指して頑張る選手たちがいます。

東京五輪が楽しみだなんて言えません。胃が痛くて苦しくなってくる。でも、どんな苦労も乗り越えたい。2020年を終えることができた時、きっと後からやってくる、じわっとくる感覚がある。それを味わいたいと思っています。

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