スケート王国の創始者が、愛弟子への思いを熱く語った。平昌五輪(ピョンチャンオリンピック)スケート男子代表は、加藤条治(32)小田卓朗(25)ウイリアムソン師円(22)一戸誠太郎(21)と山形中央高出身が、男子代表8人の半数を占める。前回のソチ五輪にも加藤とウイリアムソンは出場、山形の競技力の高さを示した。同校の椿央(ひろし)監督(52)は「その後も各チームで力をつけてくれてうれしい」と成長を喜びながら、教え子たちの高校時代を回想した。
加藤は、4人兄弟の末っ子になる。4学年上の長男清昌さんもスケート部に所属し、椿監督の指導を受けた。そのころ一緒にリンク場に来ていた小学生の加藤は、更衣室のコインロッカーの中に入って、かくれんぼをしていた。「そのくらい小さく、お父さんも『条治は成長が遅い』と心配していた」と、当時を懐かしむ。
その末っ子にその後、驚かされる。加藤が同校に入学した00年、500メートルでは高3の次男竜也さんが高校総体優勝候補だった。対して1年生の加藤は「ひ弱」。しかし技術は桁違いで「小さい頃からショートトラックもやっていたからか、コーナリングは竜也より良かった。一発で倒していくのが上手だった」と、竜也さんにまねるように指示したほど。総体は兄弟でワンツーフィニッシュだったが、制したのは末っ子の加藤。ここから、史上初の3連覇が始まった。
そして、日本短距離初の高校生代表に選ばれ、02年W杯長野大会でデビュー。記者会見で「世界に名前を覚えてもらえる滑りをしたい」と意気込む姿に「何言ってるんだよ」と内心は苦笑いだったが、いきなり3位。「有言実行かビッグマウスか」と仰天するしかなかった。
一方、葛藤する姿も忘れない。筋力アップに励む姿を見て、高3時には日体大の選手をトレーニングパートナーに選んだ。3年間で10キロの増量に導き、苦手だったスタートダッシュを改善させた。最近でも、昨年に所属先を変えたことを心配し、真っ先に相談に乗った。10年バンクーバー五輪後、「こんな悔しい銅メダルはない」と語った愛弟子の、悲願達成を願っている。
初出場の小田について「体力、ポテンシャルは一番」と、高く評価する。同校は夏場は北海道遠征などで地理的不利を補うが、小田にはさらなる強化プランを命じた。3年時の11年、日本電算サンキョーの合宿に参加させた。バンクーバー五輪500メートル銀メダリストの長島圭一郎らと練習し成長。すると、同年の全日本距離別では1500メートルで初優勝した。昨年末の代表選考会ではウイリアムソンとワンツーフィニッシュで制し、ともに代表入り。「得意な距離だから、師円には負けられないでしょう」。
同学年のウイリアムソンと一戸は3年時の14年、同校初となる総体の学校対抗優勝に貢献した。ウイリアムソンは同年のソチ五輪で5000メートルに出場した。入学当初の2人は対照的だった。ウイリアムソンは中3時、500メートル、1000メートルで全国大会3位だったが「スピードが遅かった。前年女子の3年生よりランニングが遅く、よく勝てたな」と5000メートルに転向させた。一方、一戸は同大会3000メートル、5000メートルで優勝。「天才肌で真剣にやればすごいスピード」だった。
2年時、バンクーバーでの韓国の躍進を見て韓国人の金明碩コーチを招いた。「種目は同じトレーニングでしたが、量が違った。僕が見てもハード」という鬼特訓を経て、2人は五輪代表を争うまでに急成長。選考を制したのはウイリアムソンだったが、ソチ五輪では韓国人選手と同走し最下位に沈んだ。「金さんから『韓国人に合わせていけばある程度タイムは出る』と指示されたが、雰囲気に惑わされた」と振り返る。
昨年12月のW杯で立て続けに日本記録を更新し、互いに切磋琢磨(せっさたくま)する関係を喜ぶ。前回は1秒差で涙をのんだが、今回は5000メートルの代表をもぎ取った一戸を「よくやった。W杯で自信を得た」とねぎらった。
◆椿央(つばき・ひろし)1965年(昭40)、北海道むかわ町生まれ。北海道栄高(元・北海道日大高)2年時に国体5000メートル優勝。日大に進学後、1年時に全日本選手権4位。90年、地元国体開催(92年)へ向けた競技の強化と普及活動を期待され、山形中央高に赴任し、スケート部顧問に就任した。