【中日週間〈2〉権藤博の12日】?権藤?移動、権藤?…/物語のあるデータ〈4〉

梅雨どきの試合はやっかいです。ドーム球場が増えたとはいえ、中止はあるし、ときに雨中の戦いも強いられます。「権藤、権藤、雨、権藤」。不朽の流行語が生まれたのは梅雨の真っただ中、1961年(昭36)7月のことでした。この年、中日に入団した権藤博が先発、抑えにとフル回転しました。(敬称略)

プロ野球

巨人を完封し3勝目を挙げたルーキー時代の投球フォーム。しなやか=1961年4月19日

巨人を完封し3勝目を挙げたルーキー時代の投球フォーム。しなやか=1961年4月19日

?川上哲治監督の初陣にデビュー

権藤は開幕戦からいきなりベンチ入りした。チームが1点を勝ち越した9回、ブルペンに走った。同年の4月8日、後楽園の巨人戦だった。

今年、巨人の抑えとして大活躍しているルーキー大勢も、開幕からブルペンで待機。初登板してセーブを挙げた。権藤に出番はなく、デビューは翌9日のダブルヘッダー第1試合の先発に持ち越された。

この年の巨人は、川上哲治監督の就任1年目。米ベロビーチでキャンプを行っての出陣だった。そんな相手に初先発した。

立ち上がりの1回2死後、プロ4年目の長嶋茂雄に強烈な二塁打を浴びた。ルーキーは動じない。快速球に、当時ドロップと表現された落差の大きいカーブを交え、つけ入るスキを与えなかった。被安打8、三振6の1失点で完投勝利を挙げた。

◆権藤博(ごんどう・ひろし) 1938年(昭13)12月2日、佐賀県生まれ。鳥栖―ブリヂストンタイヤを経て61年中日入団。1年目に35勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、新人王、沢村賞。61年のシーズン429回 1/3 はセ・リーグ記録。65~67年は三塁、遊撃手としてプレーした。68年、投手に復帰して引退。中日コーチなどを歴任し、98年に横浜の監督に就任して1年目に日本一。17年WBCでは日本代表投手コーチ。右投げ右打ち。

?語源は…巨人堀本律雄の嘆き

球宴までの前半戦で34試合に登板し、17勝(9敗)を挙げた。その球宴前、巨人堀本律雄が、記者相手にこうもらしたという。「中日は権藤しかおらんのか。権藤、雨、旅行日、権藤、雨、権藤や」。

7月11日、2人が対戦した試合前のひとことだった。これがリズミカルに短縮され、世に広まった。堀本は前年に29勝を挙げ、新人王に輝いた右腕。権藤のデビュー戦の相手でもあった。

試合は2-1で堀本が完投勝ちした。6月後半から連日のように雨が降り続く中、中日の先発投手は堀本の言う通りだった。

6月24日、権藤は1失点で大洋に完投勝ちすると、7月1日には同じ大洋を完封した。この「中6日」は雨天中止が4試合、残る2日間は移動日だった。

1968年、引退した年。変わらぬダンディズム

1968年、引退した年。変わらぬダンディズム

2日には西尾慈高、3日には板東英二が先発したが、4日からは権藤の「独り舞台」になる。

雨、権藤、雨、移動日、権藤、雨、移動日、権藤、雨、雨、移動日、権藤と進んだ。4試合に登板して完封勝ち1、完投勝ち1、敗戦2。この12日間の中日の先発投手は、権藤1人しかいない。

開幕から1カ月余が経過した5月9日。権藤は国鉄(現ヤクルト)を完封すると、翌日もベンチ入りを命じられた。

初めてのことだった。救援で登板し、延長の末に敗れた。試合後、宿舎に帰ると、濃人貴実監督に呼ばれた。「稲尾(和久=西鉄)も、杉浦(忠=南海)も、今日のように(連投で)投げている。これからも頼む」。フル回転指令だった。

徳島・吉野川市出身。1974年入社。
プロ野球、アマチュア野球と幅広く取材を続けてきた。シーズンオフには、だじゃれを駆使しながら意外なデータやエピソードを紹介する連載「ヨネちゃんのおシャレ野球学」を執筆。
春夏甲子園ではコラム「ヨネタニーズ・ファイル」を担当した。