ベーブ・ルースの小言と賞賛 「日本に立派なプロ野球を作った。偉い偉い」

日刊スポーツは1946年(昭21)3月6日に第1号を発刊してから、これまで約2万8000号もの新聞を発行しています。昭和、平成、そして令和と、それぞれの時代を数多くの記事や写真、そして見出しで報じてきました。日刊スポーツプレミアムでは「日刊スポーツ28000号の旅 ~新聞78年分全部読んでみた~」と題し、日刊スポーツが報じてきた名場面を、ベテラン記者の解説とともにリバイバルします。懐かしい時代、できごとを振り返りながら、あらためてスポーツの素晴らしさやスターの魅力を見つけ出していきましょう。今回はベーブ・ルースです。エンゼルス大谷翔平選手が二刀流で活躍し、今なお紙面に名前が登場する大リーグのスーパースターを、日刊スポーツはどう報じてきたのか振り返ってみます。(内容は当時の報道に基づいています。紙面は東京本社最終版)

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53歳で死去

エンゼルス大谷翔平選手の活躍で、近年あらためて二刀流の元祖ベーブ・ルースも注目されている。

さて、日刊スポーツはどのようにルースを報じてきたか、過去の紙面を探ってみたい。

日刊スポーツの創刊は1946年(昭21)。ルースはすでに野球界を離れていたので、活躍は伝えられていない。ただ、ルースの死去は、1948年(昭23)8月18日付の1面でたっぷり報じている。

【ニューヨーク特電十六日発AP特約】米国球界に不滅の金字塔をうち立てた本塁打王ベーブ・ルースは月曜日午後八時一分当地のメモリアル・ホスピタルで癌と餘病を併発して永眠した。もとニューヨーク・ヤンキースのスターで享年五十三、二年前から病床にあった。

本文では、日本野球連盟副会長の鈴木惣太郎氏のコメントが載っている。鈴木氏は日本プロ野球の発足に尽力した人物で、ルースを説得して1934年に来日を実現させている。

これは好企画で歴史的な価値も高い。内容も秀逸で、ルースが日本に対して抱いていた思いが伝わってくる。

私とベーブの関係は昭和九年に彼が日本を訪問し私が二カ月にわたって彼と一緒に回った時から始まり今まで続いた。(中略)私はよくベーブに小言をいわれた、あんまり小言をいうのでちょっとむくれるとベーブは自分が小言をいうのはアメリカではゲーリック、日本ではお前だけだ、ゲーリックは将来のヤンキースを背負って立つ男だけにできる限りの小言をいうのだが、お前にいうのはお前が今後日本にプロ野球を作るという大きな希望を持っているからだとしみじみといわれその後は彼の小言を有り難く聞いた。

(中略)彼が日本のプロ野球にたいする関心は非常なもので、昭和十年に巨人軍をつれてアメリカ遠征に行ってデトロイトのキャピイス・ホテルに泊まっていると彼から電話がかかりすぐこいというので行くと私の顔を見るや「立派に日本にプロ野球を作った、偉い偉い」と自分のことのようによろこんでくれた。

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編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。