「東洋の魔女」大松監督が優勝の瞬間に飲んだものは? 64年東京五輪の食事事情

日刊スポーツは1946年(昭21)3月6日に第1号を発刊してから、これまで約2万8000号もの新聞を発行しています。昭和、平成、そして令和と、それぞれの時代を数多くの記事や写真、そして見出しで報じてきました。日刊スポーツプレミアムでは「日刊スポーツ28000号の旅 ~新聞78年分全部読んでみた~」と題し、日刊スポーツが報じてきた名場面を、ベテラン記者の解説とともにリバイバルします。懐かしい時代、できごとを振り返りながら、あらためてスポーツの素晴らしさやスターの魅力を見つけ出していきましょう。今回は1964年(昭39)の東京五輪を報じる紙面です。当時の編集方針なのか、食事に関する話題が多い。ステーキ、ハムエッグ、生卵、えっ? コーンフレークにビールも? (内容は当時の報道に基づいています。紙面は東京本社最終版)

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マラソン選手の食事を拝見

1964年10月10日、東京五輪の開会式が行われた国立競技場

1964年10月10日、東京五輪の開会式が行われた国立競技場

東京五輪…といっても1964年(昭39)の話である。

2021年に行われた2度目の東京五輪を前に、前回を報じた日刊スポーツをすべて振り返った。

開会式を報じる10月11日付の1面は「6500人トウキョウの大行進」と、スタンドから撮影した写真を大きく使っている。原稿はリードだけ。文章からは筆者の興奮と力みが、今なお伝わってくる。

オリンピックは開幕した。神宮・国立競技場のマンモス・スタンドに九十四カ国の国旗が、しみとおる秋空にひるがえった。〝世界の友好と平和〟をつなぐ太い帯はギリシャから日本絵とつづく。(中略)聖火台にオレンジ色の炎が強くひろがる。大空にはジェット機の吐いた煙が五つの輪になって浮かぶ。だれもが、この日を待っていた。

1964年10月11日付1面

1964年10月11日付1面

レスリング勢の奮闘、マラソンではアベベの連覇、円谷幸吉の銅メダル、柔道の猪熊功、ボクシングの桜井孝雄らが獲得した金メダル。そして「東洋の魔女」の異名を持つ女子バレーボールの優勝など、あますところなく報じている。

よく読むと、「選手の食事」に触れた記事が多い。当時の編集方針だったのだろうか。メニューが詳細に書いてある。

10月22日付は「なにを食べて あれだけ走る マラソン選手の食事拝見」という見出しで、レースを終えた男子マラソン選手の食事を特集した記事を掲載している。

1964年10月22日付4面

1964年10月22日付4面

期待にこたえてメーン・スタンドに初の日の丸を掲げた円谷選手は、この日六時半に起床した。軽い準備体操のあとの朝食は、ジャガイモと野菜サラダ一サラ。ビフテキをひとキレ。モチを三個入れたゾウニはレース当日の朝食の食卓に欠かすことのできない存在だ。「モチはとても消化がいい割りに、腹持ちがいいですね。モチを食べて走ったおかげで、空腹をおぼえませんでした。30キロで少し左腹が痛くなりましたが……。ビフテキは少し食べただけで体力がつきます。やはり栄養があるんでしょう」

寺沢、君原も朝食にモチを食べた。しかし、円谷とは献立が違う。みそ汁、つけ物、ソーセージ、ハム……ふだんと大差ない朝食だった。

1964年10月、東京五輪マラソンで、円谷(左)はヒートリー(後方)をリードして国立競技場に帰って来た

1964年10月、東京五輪マラソンで、円谷(左)はヒートリー(後方)をリードして国立競技場に帰って来た

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編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。