びわ湖毎日マラソンが来年度から消滅することで調整されていることが17日、関係者への取材で分かった。来年2月28日の第76回大会が最後になるという。五輪や世界選手権の最終選考会として、多くの代表を輩出した男子の日本3大マラソンの1つ。しかし、近年は好記録が続出する東京マラソンに押され、話題性に貧しく、その価値が問われていた。今後は大阪マラソンが、代表選考レースに格上げされるのが最有力という。

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マラソン史を彩り、数多くの五輪や世界選手権の代表を生み出した、びわ湖毎日が、その歴史に幕を下ろす。1946年に始まった現存する日本最古のマラソン。福岡国際、東京と並び、男子3大マラソンに数えられる。しかし、関係者によると、東京五輪代表の中村匠吾(28=富士通)らが出場を予定する来年2月28日のレースが最後となる。

大津・皇子山陸上競技場が発着点である、びわ湖毎日は例年、五輪、世界選手権など世界大会の最終選考レースだった。12年ロンドン五輪、16年リオデジャネイロ五輪とも、2人の代表を輩出。前身である毎日マラソン時代の64年、68年大会は上位3人とも五輪代表となった。代表争いの最終決戦-。その重圧をはねのけた多くの名ランナーが、世界へと羽ばたいた。

幾多の名勝負、伝統が積み重なる大会だが、最近は話題性に乏しかった。事態が暗転した背景は、東京マラソンが17年にコースを変更し、記録が出やすくなったこと。18年に設楽悠太(29=ホンダ)が、20年に大迫傑(29=ナイキ)が日本新を更新したように、好タイムを狙うトップランナーは、東京に出る流れが定着した。結果的に、びわ湖毎日はエリートランナーだけの大会ながら、目玉となりうる選手の足は遠のいた。過去2年は名古屋ウィメンズマラソンと、日にちが完全に重なっていたことも、影を薄くする一因になった。採算性も含め、大会の在り方が問われていた。

関係者の話を総合すると、大阪マラソンが代表選考レースに変わることが最有力という。国内のマラソンでは東京に次ぐ規模で、約3万5000人が大阪を駆ける都市型市民マラソン。そこに「代表選考会」の看板が加わる可能性が高い。

活況にあるマラソン界。東京五輪のため「一発勝負」の要素を入れた代表選考会「マラソン・グランドチャンピオンシップ(MGC)」は大成功した。24年パリ五輪へ向けても、同じような“一発選考”のレースをする方向だ。今はコロナ禍による時代の過渡期。日本マラソン界も、より盛り上がる形へと、再編と改革が推し進められていく。

▽68年大会

上位3人がメキシコシティー五輪代表に選ばれた。優勝は35キロ付近で仕掛けた宇佐美彰朗で、2時間13分49秒。4月開催で気温は19度の中、日本歴代5位(当時)という好タイムだった。2位は2時間14分24秒の采谷義秋、3位は2時間14分46秒の君原健二。君原は半年後の五輪で銀メダルに輝いた。

▽88年大会

瀬古利彦が2時間12分41秒で優勝した。同年ソウル五輪の切符を懸け、前年12月の福岡国際が「一発勝負」とされたが、瀬古は直前の故障で欠場。中山竹通が「はってでも出てこい」という旨の発言でも話題に。その“追試”となった舞台で、後続と3分近い差の独走を見せ、代表となった。

▽03年大会

21歳の中大生だった藤原正和が初マラソン日本最高記録となる2時間8分12秒をマークした。91年森下広一が持っていた従来のタイムを41秒も更新。日本人トップの3位に入り、世界選手権パリ大会代表に内定した(故障で辞退)。高速化が進む中、藤原の初マラソン最高記録は現在も残る。

▽12年大会

日本人先頭争いはトラック勝負までもつれた。冷たい雨の中、中本健太郎が38キロ付近でトップに。追走した山本亮が残り400メートルで、中本をかわした。2時間8分44秒の4位山本、2時間8分53秒の5位中本は、ともにロンドン五輪代表に選出。そのロンドンでは、中本が6位と健闘した。

▽18年大会

初マラソンの中村匠吾が2時間10分51秒で日本人トップ7位だった。東京五輪代表選考会MGCの出場条件は2時間11分0秒以内。突破は厳しいと思われたが、駒大の恩師大八木監督から、最後500メートルで「あと5秒」とのげきを受け、猛スパート。これが成長の契機となり、MGCを制し、東京五輪まで駆け上がった。