日焼けした肌に、太い腕、鋭い眼光-。グリーンに立つその姿は、昔と変わらないオーラが漂っていた。

 8月1日。三重県のトーシンプリンスビルGC(7069ヤード、パー72)で、男子ゴルフツアー出場への第1関門となるファースト・クォリファイング・トーナメント(QT)の第1日が行われた。

 かの清少納言が枕草子で詠んだとも言い伝えられる榊原温泉からほど近い、人気のない片田舎のコース。ギャラリーはいない。報道陣は私を含めて2人だけ。やけにセミの鳴き声が響く。インスタートの8組目。かつてプロ野球近鉄などに所属し、05年には海を渡ってドジャースでもプレーした中村紀洋(44)が、第2の人生としてQTに挑戦したのは、そんな場所だった。

 大阪で育ち、近鉄での活躍から、関西での印象が強い。だが、最後のユニホーム姿は14年に横浜のDeNAだった。それから3年が過ぎても、まだ現役時代をほうふつさせるような体つきをしている。今にもバットを握り、本塁打をかっ飛ばしそうな雰囲気すらあった。

 「人生はそう長くはない。後悔だけはしないようにせんとね。体が元気なうちに、チャレンジしたかったんです。今の実力も知りたかったしね。でもね、ゴルフは血が騒いだら、ダメなんですよ。野球はグワーッとね、闘志を表に出さないといけないスポーツやけどね。ゴルフは繊細なスポーツやから。(闘志を)出したら、アカンのです」。

 第1日はバーディーなし、7ボギーの79。7オーバーで参加93選手中、61位からのスタートだった。勝負の世界で生きてきた中村からすれば、納得できるはずもない。悔しそうに、こう話した。

 「7オーバーをたたいているようではダメやね。バーディーがゼロということが問題。技術がないんでね。これでも、ギリギリしのいだ方ですね。85くらいたたいても、おかしくなかった」

 豪快で、職人気質。そんなイメージを抱いていたが、ゴルフを始めたきっかけを尋ねると、違った一面を垣間見たような気がした。

 「高校(大阪・渋谷高)を出てね。先輩たちとコミュニケーションを取る手段が、ゴルフだったんですよ。ゴルフに誘われないと、先輩と会話ができないからね」

 18歳だった92年に、ドラフト4位で近鉄に入団。ゴルフを通じて、プロの世界に溶け込んだ。関東に遠征する際には、新大阪駅のホームにある売店で、棚に並んだゴルフ雑誌を何冊も買い込んだのだという。

 「どうやったらバンカーから打つのか、とかね。青木(功)さんや、ジャンボ(尾崎)さんがやっていることを参考にした。我流ですけどね。月曜日の移動の時は、新幹線で(大阪~東京間の)2時間半、ずっとゴルフ雑誌を読んでいた」

 今年からは浜松開誠館高で、野球の指導にあたっている。

 「高校生から元気をもらっている。私もまだ元気な姿をね。それを見せたかった」

 14年オフにDeNAを自由契約になっても、最後まで引退は口にすることなく、所属先を探し続けた。本格的にプロゴルファーへの道を歩み始めたのも、どこかでまだ、現役へのこだわりがあるからかも知れない。

 不屈の闘志-。そんな言葉がよく似合う。8月1日から3日間の大会で、第2関門となるセカンドQTに進めるのは23選手(他に補欠5選手)。決して簡単な道のりではないだろう。それでも、プロ野球界を沸かせた強打者が、再び輝く日を楽しみにしている。【益子浩一】