ゴルフ場の支配人になったプロキャディーがいる。京都・日清都CCで昨年11月に着任した小岸秀行氏(48)だ。ツアー通算39勝をサポートした清水重憲氏、同35勝サポートで日本プロキャディー協会代表理事の森本真祐氏と同世代で、同じ90年代半ばにプロキャディーになった“第1世代”の1人でもある。

プロキャディーから日清都CC支配人に“転身”した小岸秀行氏、銅像は日清食品創業者の安藤百福氏(撮影・加藤裕一)
プロキャディーから日清都CC支配人に“転身”した小岸秀行氏、銅像は日清食品創業者の安藤百福氏(撮影・加藤裕一)

小岸氏は「人生、何がどうなるかわかりません」と笑うが、笑い話のレベルではない。昨夏、ゴルフ業界の知人から2人の人物を紹介された。日清食品HDの安藤宏基社長と安藤徳隆副社長。同社創業者で「チキンラーメン」「カップヌードル」生みの親、安藤百福氏の次男と孫である。そこから「どうだ、やってみるか?」てな流れになった。ツアーの“黒子”が、一流財界人にゴルフ場を丸々任されたわけだ。

大物との出会いから支配人になるまでは“お湯を注いで3分”の速さでも「人間・小岸秀行」のできあがりには、インスタント麺開発並みの時間がかかった。

ゴルフより音楽が好きだった。92年の立命大入学直後まで「アイアン・メイデン」「AC/DC」などヘビーメタルにハマった。バイトで金をため、ライブを見に英国まで出向いた。「ハードロック系雑誌の編集とかしたかったんですよ。それとか海外バンドを呼ぶ音楽事務所に就職して、インカムつけてバックステージパスで楽屋に入ったり…」。そんな妄想をした。

立命大2年の93年秋、ヘビメタ・マニアの人生が変わる。滋賀・琵琶湖CCへ、父と一緒に日本オープンを見に行った。優勝した奥田靖己、死闘を展開した尾崎将司ではなく、尾崎のキャディーに目を奪われた。「あの人、何してんねん?」。クラブを渡し、ラインを読む。尾崎がたばこをくわえれば、火を付ける。佐野木計至氏だった。

ゴルフにハマった。トーナメントで学生キャディーのバイトに精を出した。ボールにとまったトンボを救うため、ペナルティー覚悟でボールを拾い上げた福沢義光の“フェアプレー伝説”を目撃した。いろんなプロのバッグを担いだ。96年、ある大会で尾崎に「おい、小岸!」と呼ばれた。「ジャンボさんに覚えられた。もうやっていける」。大学を中退、プロキャディーになった。

すぐに食っていけたわけではない。97年から4年ほど、オフは清水氏と一緒に警備員の夜間バイトをした。真冬の湾岸、高速道路で制服を着て、警棒を手にして蓄えを増やした。持ち前の好奇心から活動の場も広げた。トーナメント運営の裏方、ゴルフ番組製作、イベント企画なども手がけた。

プロキャディーから日清都CC支配人に“転身”した小岸秀行氏(撮影・加藤裕一)
プロキャディーから日清都CC支配人に“転身”した小岸秀行氏(撮影・加藤裕一)

多くの経験を経て、支配人になった。「今までは全部、自分のために頑張ってきました。そんな自分を財界のトップの方が買ってくださった。今回が初めてです。“恩返ししたい”と思うんは」。午前5時に兵庫・宝塚市の自宅を車で出発、6時に京都・宇治市のコースに着く。受け付け開始の6時半を前に玄関前に立ち、お客さんを出迎える。

「マスク姿になったら、お客さんの顔がわからない。メンバーさんの顔は全部覚えたいので」。車中のノーマスク顔をのぞき見て、メンバー約750人中やっと1割ほど覚えた。出迎えを終え、雑務をこなし、極力コースに出る。目土を持ち、グリーンのピッチマークを直し、コンディションを見て回る。

駆け出しだが、日本中の他の支配人に絶対負けない財産を持つ。欧米ではペブルビーチ、ベスページのブラックコース、ワイアラエ、ターンベリー…、東南アジア各国、そして日本で。“旅人ゴルファー”の川村昌弘と一緒にアジアンツアーを転戦した経験もあり、世界各地で334ものゴルフ場を見てきた。

「見て、感じて、良かったと思うものを全部、日清都CCに落とし込んでいきたいと思っています」。

キャディーを辞めたわけではない。時間があれば、体力が続くまでの思いを胸に、今季も男子を中心に約10試合でバッグを担ぐ。サポートした優勝数は6回。それは森本、清水両氏らに及ばないが、小岸氏の並外れたバイタリティーはとどまるところを知らない。【加藤裕一】(ニッカンスポーツ・コム/ゴルフコラム「ピッチマーク」)

プロキャディーを経て、小岸秀行氏が支配人に着任した日清都CC(撮影・加藤裕一)
プロキャディーを経て、小岸秀行氏が支配人に着任した日清都CC(撮影・加藤裕一)