春だというのに、仙台は肌寒かった。01年4月、宮里藍は故郷沖縄を離れた。ゴルフに専念するために選んだのは、東北高だった。入学してすぐ、福島県で大会があった。泊まりはゴルフ場のロッジ。試合が終わり、夕食が済むと、自由時間になった。宮里は監督の川崎菊人(現東北福祉大コーチ)に尋ねた。「パターの練習をしていいですか」。外は真っ暗だった。

 厳格で知られた川崎も、これには驚いた。「球が見えないだろう」。入部したばかりの少女は答えた。「月の明かりで見えます。沖縄でもやっていました」。月明かりに照らされる中、ボールがカップに落ちる音が響く。その姿に1人、また1人と部員が出てきた。川崎は「率先して練習することを求めていた時に、彼女が体現してくれた」と振り返った。

 高校3年間でめきめき力を付けた。2年時に女子ツアーのサントリー・レディースで3位。3年の03年6月には横峯さくらを準々決勝で破り、日本女子アマを制した。その夏、日本ジュニアで優勝した帰り道のこと。埼玉から仙台へ向かう車中で、主将だった宮里は、マイクロバスを運転する川崎に言った。「甲子園に応援に行きたいです」。2年生エースのダルビッシュ有を擁する東北高野球部は、常総学院との決勝を翌日に控えていた。全員が宮里に同意。川崎は高速道路を降りてUターンし、夜通しかけてバスを関西へと走らせた。

 同じクラスには野球部のメンバーがいた。毎日続く厳しい練習に主将の片岡陽太郎が「俺たちは走らされてばかりだ」と愚痴をこぼすと、宮里は「それをやれば強くなれるんだよ! 日本一になりたいんでしょ!」と諭した。2学年下の奥山知宏(現東北高ゴルフ部監督)は「藍先輩が、みんなにいい影響を与えてくれた。『やらないといけない』という雰囲気にしてくれた」という。夏の甲子園で野球部は準優勝。アルプス席では声をからして声援を送る宮里の姿があった。(敬称略)【益子浩一】