東北高1年の原江里菜(現プロ)は、2学年先輩の宮里藍の後を必死についていった。1ホール終わるごとに、監督の川崎菊人(現東北福祉大コーチ)の携帯電話にスコアを知らせるメールを送った。03年9月28日。ミヤギテレビ杯ダンロップ最終日。川崎は知人の結婚式に出席するため不在だった。第2日を終え宮里は、首位山口裕子に1打差2位。終盤まで優勝争いはもつれた。いてもたってもいられなくなった川崎は、途中で式を抜けだした。

 最終18番パー5。首位は通算4アンダーで宮里と山口、片山真里の3人。残り35ヤードの第3打はピン手前2メートルへ。入れれば優勝、外せばプレーオフのバーディーパット。白球がカップに落ちる、乾いた音が響く。次の瞬間、大歓声が起こった。日本女子ゴルフ界30年ぶりとなるアマ選手のツアー優勝。当時の最年少優勝記録も塗り替えた18歳の女子高生は泣いた。

 その夜、沖縄から駆け付けていた父優と相談してプロ転向を決意した。この年の2月に「ツアー優勝したアマ選手は、4週間以内にプロ転向を表明し協会が認めれば、シード選手として1年間のツアー出場が可能」と規定が改正されたばかりだった。10月7日、プロ宣言の会見で「米国に行って全米女子オープンに出場したい」と言った。18歳の視線は、既に米国にあった。

 東北高の同級生にダルビッシュ有の女房役で巨人に進んだ佐藤弘祐、1学年上にヤクルトの雄平ら名だたるアスリートがいた。そんな環境で宮里は、英語を担当した佐藤雅之によると「人より努力をする生徒。米国でプレーする希望があったから、授業中の集中力もすごかった」。同じクラスの相沢実希は「大会の後で疲れていても、授業を休むことはなかった」。練習の合間に東北高敷地内にあるインターナショナルスクールに通って英語を習得。米国で活躍する夢へ、努力を惜しむことはなかった。

 ただ、この頃から“終わり”も意識していた。プロ宣言後、お祝いを兼ねて1年時の担任だった佐藤明代と食事をした。何げなく「何歳までプロをやるの」と尋ねると、宮里は答えた。「30歳くらいまでですね。そこまでしかプロでやることは考えていません」。その言葉にうそはなかった。(敬称略)【益子浩一】