2007年の日本女子ツアー競技は年間36試合、賞金総額は実に28億8820万円。もちろん賞金だけではなく、スター選手の所属をはじめさまざまな契約が絡み、動いているお金は確実に3ケタの億になる。スポーツビジネスの世界では、女子プロゴルフは見事な成功例の1つだ。

しかし、この規模のビジネスにたどり着くまでには、多くの人の汗と涙があった。日本で初めて女子プロの試合らしい試合が開催されたのは、樋口久子(61=富士通)らが合格した第1期女子プロテストが行われた翌68年のことだ。賞金総額45万円、優勝賞金15万円の日本女子プロ選手権と、TBS女子オープン選手権(現日本女子オープン)。樋口はこの2試合をともに勝つ。それどころか、初優勝から日本女子プロは7年連続(通算9度優勝)で、日本女子オープンは4年連続(通算8度優勝)で勝ち続けたのだ。

当時、スポーツ紙においても女子ゴルフ担当記者が生まれ始めている。産経新聞社の八木嬉子(69)が運動部のバレーボール担当からゴルフ担当になったのは68年のことだ。以来サンケイスポーツ、日刊と渡り歩き、98年まで女性記者として女子プロゴルフを見続けた。

八木「当時の運動部長に『樋口久子と佐々木マサ子という優秀な選手がいる。これからは女子ゴルフがきっと伸びるから』と担当するように言われました。樋口さんはとにかく群を抜いていた。まるで機械のように、どんなショットでも同じスイングで打った。すごい選手でしたよ。師匠の中村トラ(寅吉)さんは『暇があったらクラブを握っとけ』という指導だったから、樋口さんはいつも練習していた印象がある。あのころは言葉数が少なくて、取材しにくい選手の1人ではありましたね」

元五輪選手(水泳)の部長、木村象雷(しょうらい)の目は確かだった。女子プロゴルフの世界は2冠を独占する「樋口VS.他の選手」という構図で徐々に人気が高まって行ったのだ。

樋口「自信? いつも勝つつもりでプレーはしていました。周囲に常に勝つのが当たり前というふうに見られていましたし…」

試合が増加傾向にあったとはいえ、まだ年間5~6試合に過ぎない。70年から樋口は佐々木マサ子(63)と一緒に米ツアーに出場し始めた。毎年4月から6月にかけて約10試合、米ツアープロ80~90人とともに転戦したのだった。海外勝利も2度達成した。74年豪州女子オープン、76年コルゲート欧州オープン。

樋口「オーストラリアの試合は2月。『招待されたけど、マー坊(佐々木マサ子)行く?』と尋ねたら『暑い所だからいいわね』と行きました。76年はナビスコ・ダイナショアで3位に入ってイギリスへ招待された。アメリカ人の選手が多い試合でした。ヨーロッパで勝った時、(アメリカ)本土で勝ってみたい希望が強く芽生えました」

アメリカの大舞台で大輪の花を咲かせる準備が進む。それが今日の女子ゴルフの隆盛を招き寄せる最初の1歩になるとは、その時は誰も気づいてはいなかった。(つづく=敬称略)【編集委員=井関真】

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